週刊朝日ムック『歴史道Vol.6』では、幕末を大特集。剣と誠を貫き、滅びゆく幕府に殉じた新選組。時には「壬生浪(みぶろう)」と蔑まれながらも、恐れられたその実力とはいかなるものだったのか。短期連載のラストを飾るのは、前回の記事「潜伏浪士捜査の背景」に続き、天下にその名を轟かせた池田屋事件、その激闘の模様を解き明かす!
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■会津の助勢を待ち切れず、単独での行動を開始
新選組と共同の御用改めを確約していた京都守護の会津藩内では、血戦に及んだ後、長州勢と禍根を残すのではといった消極的意見が出て、混迷する事態に陥っていた。急いた新選組は会津からの連絡を待ち切れず、約定より半刻ほど早い午後7時頃、単独出動を開始する。
まさにその頃、リーダー格でもある長州の吉田稔麿は常宿の池田屋を訪れ、帳場に酒肴の用意を依頼してから、手紙をしたため、潜伏する同志を召集していた。
こうした池田屋内の動向は、明治九年(1876)に、主人の入江惣兵衛の贈位嘆願のため、京都府知事に提出した長男の重三郎の文書に記されている。
いったんは古高俊太郎脱還の動きを押さえたものの、さらなる善後策を練るため、吉田の主導で開かれた緊急会合だったと思われる。重三郎によると、池田屋には13、4名が集まったとある。
これが池田屋の会合だった。後に新選組が古高俊太郎の自供をまとめた記録が残されている。その中に、6月4日に、鳥取藩重役の山部隼太と面談したとの供述がある。山部はまた隣家の大高又次郎宅を訪ね、近々に中川宮を放火襲撃する計画を相談、火薬を預かったとの供述もある。中川宮は皇族の出自を持つ公武合体派の重鎮で、当時、反幕府派から憤怒の対象となっていた。
ただ、長州藩京都留守居役の桂小五郎は、十一日付の国許(くにもと)への手紙に「長人五百余り浪花へ上がり、百人、上仗(武装兵か)四十人入京、変に応じ洛中放火致し一挙致し候」などという「虚説」があったと認めている。
山部隼人は鳥取藩内の親長州勢力とも繋がる大物だが、古高が語った彼の関与は今日まで不明である。だが俗に、広く京都に放火し、天皇を長州へ奪取するなどとされる反幕府派の計画は、後に尾鰭(おひれ)をつけて広められたフィクションに過ぎない。中川宮放火計画は潜行していたかもしれないが、池田屋で話し合われたのは、古高俊太郎に関する問題だった。
3時間をかけて捜索を展開しながら鴨川西岸の木屋町通りを北上した近藤勇の率いる一隊は、やがて三条通りへたどり着いた。午後10時頃である。