歌舞伎なら、富樫に感謝しつつ弁慶が勇壮な飛び六法で引っ込む見せ場で幕となるが、木ノ下歌舞伎は違った。義経一行が引き続き追跡されていることや関守の責任を問うという幕府発表のニュースを伝えるラジオのスイッチを、富樫が静かに切るところで幕となった。“名優による男同士の肚芸に泣かされる芝居”という通説を思い込んできたが、これはめちゃくちゃ今の話ではないのか。富樫の深い孤独に触れ、私はあらためて涙ぐんだ。
「ボーダーとはまさに現代が抱える様々な課題のはずです。関所という国境も、役者の国籍やジェンダーも、あらゆるボーダーを超えていく物語として創りました」
大柄ながたいに似合わぬ高めの柔らかな声で話す木ノ下自身は、役者でも演出家でもない。木ノ下歌舞伎には専属の劇団員も演出家もいない。木ノ下が選ぶ歌舞伎の演目によって、そのつど演出家や俳優を集めるプロデュース公演だ。現代演劇では普通にある公演形式だが、普通の劇団と大きく異なるのは、木ノ下が歌舞伎を始めとする古典芸能の深い学識をもとに古典歌舞伎作品を再編し、現代の視点で読み解き、現代劇化していることだ。言ってみれば、作品の歴史的検証をする研究者が現代演劇として歌舞伎を創っているのである。
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400年の歴史をもち、今日まで人気娯楽として君臨する歌舞伎は、演劇の神髄がちりばめられた宝庫だ。これをなんとか現代に読み替えられないか、現代劇として再生できないかという試みは古くは戦前から今日に至るまで、多くの演劇人によって試みられてきた。近年では歌舞伎の底力を熟知する現行の歌舞伎役者自身が、歌舞伎座で人気漫画を原作とした「ワンピース」を上演してみたり、今年は新橋演舞場で宮崎駿原作の「風の谷のナウシカ」も上演する。歌舞伎は時代を超越して人を魅了し続ける怪物演劇なのだ。しかし、歌舞伎を題材とした現代演劇でこんなアカデミックな検証手続きを踏み、発信されるものなど前代未聞。したがって主宰である木ノ下の仕事は「監修」と「補綴(ほてつ)」である。
補綴ってなんなんだ。歌舞伎通ならプログラムなどで目にする言葉だが、一般的にはほとんど馴染みがない。読み方だって難しい。補綴は一言でいえば原作の編集だ。近松門左衛門、四代目鶴屋南北、河竹黙阿弥といった歌舞伎作者たちの台本は膨大な長さのものが少なくない。現行歌舞伎も短くしたり再編したりして上演するとき、台本の補綴を必要とする。既存台本を再編するには深い造詣、歴史的な知識と解釈が必要となるからだ。
木ノ下は古典の台本を考証しながら解釈するために膨大な資料を収集し読み込み、上演の台本のもととなる独自の「補綴ノート」なるものを作っている。公演演目を決めてからこのノートを作るまで、なんと1年半もの時間をかけるのだ。
「長いですかねえ。でもこれをきちんとやっておかないと稽古で迷走してしまうんです。当時の台本には書かれていないこと、台本にはない場面を想像して埋めていかないと現代に通じる物語にはなりませんから」と語る木ノ下の補綴ノートは仰天するばかりのものだった。
大判のノートに多色ボールペンを使い、手書きでびっしりと表のように書き込まれているのは、場面ごとに変わっていくそれぞれの登場人物に関する詳細な情報だ。歌舞伎台本のこの場面は、文楽の原作台本ではこの順番になっている、この場面は文楽にはあるが歌舞伎にはない、といった詳細な情報や歌舞伎音楽に至るまで、すべての情報が図表化されている。それもけっこう可愛い文字でだ。歌舞伎の原作にも書かれていない、人物のそれぞれのバックボーンまで書き込まれている緻密な“構造図”は覗いているだけでめまいを覚える。