釈迦堂や御用邸公園など日光の観光スポットがある田母沢停留所。上り貨物列車と離合する下り馬返行き100型電車。このカラー作品は35mm判「フジカラーリバーサル」で撮影(撮影/諸河久:1967年7月26日)
釈迦堂や御用邸公園など日光の観光スポットがある田母沢停留所。上り貨物列車と離合する下り馬返行き100型電車。このカラー作品は35mm判「フジカラーリバーサル」で撮影(撮影/諸河久:1967年7月26日)
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 鉄道写真家の諸河久さんが路面電車を撮影するようになったのは、56、7年前の高校生の頃。若い時分にカメラなどの大きな機材を抱えて全国をめぐるようになった。およそ半世紀前の観光地や都市を走った路面電車と街並みは、東京とは異なる文化と土地柄が写し出されていて味わい深い。今回から夏休み特別編として、諸河さんが高校や大学の学生時代に撮影した約50年前の観光地や都市部の貴重な写真をお届けする。今回は、いまや海外からの観光客も多い栃木・日光を走った東武鉄道日光軌道線だ。

【50年以上前の貴重な日光の街並みと路面電車の別カットはこちら!(全9枚)】

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 日光といえば何を想起するだろう。徳川家康公がまつられ世界遺産としても名高い、日光東照宮か、はたまた爆音とともに豪快な落水を見せる華厳の滝だろうか。だが、シニア世代の鉄道愛好家だったら、こう答えるかもしれない。「日光電車」と。

「山の町の路面電車」の異名もある日光電車は、東武鉄道日光軌道線(以下、日光軌道線)のこと。

 標高533mの国鉄駅前を起点にして、標高838mの終点馬返(うまがえし)まで、9.6kmの道程の間に305mを上る計算になる。全線の平均勾配は32パーミルで、最急勾配は60パーミルを数える。これがどのくらいの勾配かというと、スイッチバックを繰り返す箱根登山鉄道の最急勾配が80パーミル。およそ半世紀前の路面電車でこの勾配を運行していたと考えると、かの異名がつくのも不思議ではない。ちなみに、終点の馬返駅は日本の路面電車の最高地点という記録も残っている。

冬の日差しを浴びて神橋通り(国道119号線)を国鉄駅前に向かう100型電車。廃止を目前にした訪問時の一コマで、画面の左右には観光土産店や飲食店が軒を連ねている。神橋~市役所前(撮影/諸河久:1968年2月13日)
冬の日差しを浴びて神橋通り(国道119号線)を国鉄駅前に向かう100型電車。廃止を目前にした訪問時の一コマで、画面の左右には観光土産店や飲食店が軒を連ねている。神橋~市役所前(撮影/諸河久:1968年2月13日)
今夏撮影した神橋通り。観光土産店や食堂などの家並が往時の賑わいを偲ばせる(撮影/諸河久:2019年7月12日)
今夏撮影した神橋通り。観光土産店や食堂などの家並が往時の賑わいを偲ばせる(撮影/諸河久:2019年7月12日)

 筆者は日光と中禅寺方面とを結ぶ観光路面電車・日光軌道線の魅力に惹かれて、学生時代に何度も足を運んだ。そして運転最終日の1968年2月24日には、厳寒の下河原停留所で、上り最終電車を見送っている。

 日光軌道線はその前身にあたる「日光電気軌道」が明治期の1910年8月に停車場前(ていしゃばまえ)~岩ノ鼻7.4kmを開業したことに始まる。岩ノ鼻から終点馬返までの延伸は1913年だった。ちなみに、路線は全線単線で、軌間は1067mm、電車線電圧は600Vだった。

■貨物列車も走った日光軌道線

 写真は田母沢停留所で離合する国鉄駅前行き上り貨物列車と下り馬返行き100型ボギー車。下り電車はここから安良沢にかけて60パーミルの急勾配を登ることになる。画面左側に天海大僧正を祀った釈迦堂があり、右側奥には皇太子時代の大正天皇の静養所だった「日光田母沢御用邸記念公園」が所在する。エンジンをふかして国道120号線を走るトラックは「いすゞTX」で、後続のトラックは「三菱ジュピター」だ。

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戦時中に輸送力不足