明智平までのケーブルカー乗り継ぎ客で賑わう馬返駅を発車する国鉄駅前行き100型電車。いろは坂渋滞で駅前の国道は自動車が数珠つなぎだった(撮影/諸河久:1964年6月7日)
明智平までのケーブルカー乗り継ぎ客で賑わう馬返駅を発車する国鉄駅前行き100型電車。いろは坂渋滞で駅前の国道は自動車が数珠つなぎだった(撮影/諸河久:1964年6月7日)
旧駅の痕跡もわからなくなり、廃墟のような馬返バス停界隈(撮影/諸河久:2019年7月11日)
旧駅の痕跡もわからなくなり、廃墟のような馬返バス停界隈(撮影/諸河久:2019年7月11日)

■強者どもが夢のあと

 標高838mの馬返駅を発車する国鉄駅前行き100型の写真。左後方には東武鉄道日光鋼索鉄道線(馬返~明智平/1200m)の馬返駅が見えている。右側には中禅寺方面に向かう数珠つなぎの自動車群が写っている。この先の難所「いろは坂(現第一いろは坂)」は交通渋滞の名所で、自動車交通はノロノロ運転を強いられた。行楽シーズンには、日光軌道線+ケーブルカーの輸送手段に勝機もあったが、1965年に「新いろは坂(現第二いろは坂)」が開通すると渋滞は緩和され、日光軌道線は廃止への道を辿りだした。
 
 半世紀ぶりで訪れた馬返は無人の地となっていた。日光軌道線の廃止後も残存した日光鋼索鉄道線(ケーブルカー)は1970年4月に廃止されており、馬返駅跡の痕跡を視認することは叶わなかった。

 現在、日光駅前~中禅寺には日光軌道やケーブルカーを継承した「東武バス日光」が一日37往復運転され、観光客の足となっている。この馬返にもバス停が存在するが乗降客は皆無で、かつての繁盛ぶりは「夢のあと」。流れた歳月の過酷さを痛感した。

■撮影:1967年7月26日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)などがあり、2018年12月に「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)を上梓した。

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