「日本ってすげえな! と海外のお客さんを驚かせたいんです。各国の味覚に合った味づくりをすれば、どの国でもラーメンを出せると思っています。まだまだトライしていきます」(山本さん)
食材は海外の方が豊富だ。「安い食材でも、技術を加えれば美味しくできる可能性は十分にある」と山本さんは語る。ミシュラン一つ星職人のさらなる飛躍に期待したい。
そんな山本さんの愛する一杯は、紆余曲折の歴史を経て、いまだラーメンファンや常連客に愛されている東京の老舗店が作る豚骨醤油ラーメンだ。
■リストラに反発 独立した店主が持ち続けた「古巣への愛」
世田谷の馬事公苑近くに1995年にオープンした「極楽汁麺 百麺(ぱいめん)」というお店がある。いまや各地で人気の横浜家系風の豚骨醤油ラーメンをいち早く東京に広めたお店として有名で、世田谷店のほかに、中目黒店、中山道店(板橋区)と3店舗を展開している。横浜家系ラーメン好きの経営者が立ち上げ、58種類の麺と33種類のスープを試し、100種類以上の試作を重ねて一杯のラーメンを生み出したことから、「百麺」と名付けられた。
都内に初めて横浜家系ラーメンを持ってきたお店と語られることもあるが、家系ラーメン店での修行経験はなく、ある種ガラパゴス的に進化を遂げている。もちろん「家系」とも謳っていない。だから、“家系風”なのだ。
麺が太麺・細麺から選べることや、ラフティー(角煮)をラーメンに取り入れたのも斬新だった。何より、4本の寸胴で一日中炊いている厚みのある豚骨スープが人気で、開店から24年経つ今でも連日多くのお客さんが訪れている。
この「百麺」に97年にアルバイトとして入った宮田朋幸さん(49)という男性がいる。地元・茨城からバンドマンを目指して上京し、ハウスクリーニングやバイク便のアルバイトで生活費を稼ぐ日々。遠征先や仕事先で決まって食べていたのがラーメンだった。知人から「百麺」を紹介され、27歳でこの店に流れ着いた。その後社員になり、板橋(中山道店)や中目黒の新店の立ち上げにも携わる。中毒性のある「百麺」のラーメンには多くのファンがつき、売り上げは上々だった。
しかし、2002年頃に会社の方針が変わり、人員整理が行われたことで、宮田さんの人生は大きく動き始める。
5年近く働いていた宮田さんはリストラ候補には上がらなかったが、次々と仲間が肩を叩かれるのを見て、黙っていることができなかった。上層部に反発した宮田さんも、「百麺」を退職することを余儀なくされる。