警察は暴力行為等処罰法違反の疑いや非行事実で、14歳の同級生3人を書類送検するなどした。法務局が調査に入ったのも初めてのこと。子どものいじめ自殺にさまざまな機関がかかわったという点において、ターニングポイントになった。
成果を得る一方で、森はボロボロだった。
「表向きは学校に怒っているけれど、救えなかった自分に対する怒りがありました。いじめられていたことに、まったく気付けなかった。美加、何やってんの!?って死んだ母に怒られると思った」
森の母は啓祐が亡くなる2年前に病で逝った。一人っ子の森が2歳のときに父親は亡くなっており、女手一つで看護師をしながら育ててくれた。夜勤のときは知人の家に預けられ、寂しい思いをした。自分は子どもを3人産んで幸福な家庭を築くのだ──。22歳で啓祐を産み、2年おきに次男、三男をもうける。夫の実家の敷地内に家も建てた。孤独だった少女は夢を叶えたのだ。初孫の啓祐は、森の母からことのほかかわいがられていた。
啓祐が亡くなる前に突飛な行動があった。突然「競馬の騎手になりたい」と言い出した。減量するからと食事を減らし始めた。
「来年は(高校受験に臨む)3年生になるのに、ばかなことはやめて」と森は叱った。
恐らく多くの母親が似た対応をするに違いない。だが、森は取り合わなかったことを後悔し続けた。遺書に記された「生まれ変わったらディープインパクト(競走馬)の子どもになりたい」という言葉も、森の心臓をえぐった。
「私はいい母親じゃなかったと何度も言いたくなった。でも、いじめ自殺の遺族が自責の念なんて言えない。いじめが死んだ原因だと訴えていかなきゃいけないから」
深いジレンマを封じ込めるしかなかった。
「残された2人の子どもがいるのよ。お母さんが元気でないとどうするの?」
周囲からそう言われた。良い母親でいなければ。遺族としてふるまわなくては。世間のこうあるべき論に、森は押しつぶされそうになった。
地域では孤立した。
「死んだのはあなたたち親の責任。メディアを使って学校を責めるな」
そんな手紙が匿名で届いた。ママ友に相談したらほかにも話が広がったのか、潮が引くようにみんな離れていった。
一周忌が終わった頃に地元で開かれた森の講演会に、加害者側の親たちも来た。彼女たちと仲の良かった女性が「みなさん、森さんの話ばかり聞かないでください!」と声を張り上げた。
長男の自死という波紋は大きな波になり、家族をのみ込んだ。