三男(22)は、テレビに出て顔が知られた森と買い物に一緒に行くのがおっくうになった。

「みんな僕ら親子をジロジロ見ているのがわかった。ああ、あの家の子ね、と。加害者の弟とは同じ学年で。とにかくすごくしんどかった」

「弟たちは抑圧されていたと思う。兄がいじめ事件の被害者となれば、自分たちは絶対にいじめや口論さえできない。でも、当時の私に残された息子たちの気持ちを考える余裕はなかった。仕事から家に帰るのがしんどかった」と森は振り返る。

 結局、自責の念も、孤立も、舅や姑には無論のこと夫にも話せなかった。夫が限界を迎えていたからだ。夫婦ともに心療内科へ通院していた。

「苦しい、悲しいが言えなかった。孤独だった」

 事件から4年ほど経ったある日、森は2人の息子を残し、逃げるように家を出た。

 福岡市内にひとりで暮らした。孤独は時として、自分のどす黒い部分を連れてくる。

「なんで私、こんなところにいるの? あの子が自殺しなければ、不幸にならずに済んだのに」

 そうやって息子を責めた後は、必ず嫌悪と喪失感に襲われる。

「亡くなった息子はもっと孤独で、残してきた2人はもっとさびしいはずだ」

 私なんか消えたほうがいい。

 洗濯物を干しにベランダに立てば、はるか下のアスファルトに。踏切の前では、線路に吸い込まれそうになる。希死念慮を抱えたまま、彷徨った。

 息子2人の親権を夫が持つ、自分から会いに行かない等の条件を森側がのむかたちで離婚が成立。これを機に、東京へ居を移す。11年春のことだ。高齢者対象のソーシャルワーカーだった経験を生かし、地域包括支援センターに就職した。

 都会で這いつくばるように生きていた森に、衝撃が走る。

 11年10月11日。

 啓祐が亡くなったのと同じ日に、大津の男子生徒が自ら命を絶ったのだ。

「ひどい事件」と勤務先で話題になれば、うなずくしかない。自死遺族だという事実は隠していた。新聞記者、テレビ記者とも縁を切っていた。支えられた迫田とさえも。

 過去を葬り去ったつもりでも、グリーフは決して消えない。

「成人式だね」「大学に行ってたら就活だね」

 死んだ子の年を数え、同じ年の若者につい目がいった。

 そんなある日。

 妻を亡くしひとり暮らしの老人宅へ訪問すると、夫だった70代の男性は訥々と話し始めた。

「森さんは、僕がどんなとき、悲しいと思う?」
「ひとりでごはんを食べているときとか?」

 森が答えると、男性は首を振った。

「外に出てさ、電車でさ、死んだ奥さんと同じくらいの年齢の女性を見かけたりするとね、思い出して涙が出ちゃうんだよ」

 私も、おんなじだよ。

 言葉は胸にしまい、泣きながら2時間話を聴き続けた。

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