闘いの日々が始まった。その日、海外出張で家を空けていた森の夫は、学校側に事実解明をと詰め寄った。が、説明は二転三転し、真実はその切れっ端すら見えてこない。テレビカメラ、新聞記者は連日、玄関前まで迫ってきた。福岡市から30キロ離れたのどかな町は騒然となった。
「大変なことが起きたと思った」
そう明かす担当弁護士の迫田登紀子(50)は、いじめ自殺の判例はといえば、史上最悪のいじめ事件といわれた1994年の「大河内君事件」しか思い出せなかった。現在は1~2人で担うが、このときは7人もの弁護団が結成された。
「ご遺族は啓祐君に戻って来てほしいでしょう。でも、戻ってはきません。その対価として、以下の三つを求めていくしかないと考えています」
1.第三者調査委員会を設置させ、いじめを認めさせる。
2.「学校が原因の自死」と認めさせ、日本スポーツ振興センター災害共済給付金を得る。
3.警察に何らかの形で介入させる。
現在では広く知られる第三者調査委員会だが、森ら遺族は初めて聞く言葉。振興センターの給付金は児童生徒が事故に遭った際に前もって積み立てていた保護者に支払われるが、当時は「学校内で起きた事案」に限られていた。加害者の書類送検といった警察の介入も、子どものいじめ事件ではまれ。すべてが前例を変える挑戦だった。
「何に向かって進んでいいのか途方に暮れていた私たちに、明確に方向性を示してくれた」
迫田は振り返る。
「私たち弁護士は裁判をするときはほぼ勝てると思ってやる。でも、森さんの案件は(裁判は)難しいと思った。啓祐君が受けたのは主に言葉の暴力で、身体的な暴力や脅迫、カツアゲといったそれまでのいじめ事件とは違うもの。だから、給付金の獲得などに要求をとどめた。私たちに何ができて、何ができないか。酷だけれど、前もって知ってもらわなくてはいけなかった」
限界はある。けれど、三つは必ずつかみ取る。弁護士7人の矜持だった。
保護者の承諾を得た生徒6人を弁護団が個別にヒアリング。町が発足させた三者委の調査もあり、担任によるいじめを誘発する関与があったことなどの事実が浮かび上がってきた。
死を選んだ当日、いじめを続ける生徒らに啓祐が「死んでやる」と言ったら、トイレで囲まれ「こいつ死ぬって。最後だからズボンを脱がせよう」とはがされていた。連日報道を受け、九州全域から森へ「いじめ被害者の母親に話を聴かせてほしい」と講演依頼が舞い込んだ。
病院でソーシャルワーカーを務めていた森は、週末になると迫田と各地を回った。三つの挑戦を完遂させる世論の後押しにつながった。三者委が設立され、日本スポーツ振興センターの規定変更により、学校が原因と認められれば災害共済給付金が支給されるようになった。