だが、退院後も順風満帆とはいかなかった。抗がん剤の影響で、手の震えや舌のしびれがなかなか取れない。飲食の仕事に戻るのは厳しいのでは――。そんな周りの声もあった。

 それでも飯野さんは諦めなかった。

「今は料理をできなかったとしても、飲食業にかかわっていれば、いつか戻れる日が来るかもしれない」

「自分が今できることをやろう」

 友人たちも、飯野さんの“業界復帰”を支えてくれた。かつての経験を生かし、鵠沼海岸でフレンチレストランの立ち上げにも携わった。味はわからなくてもできることはある。とにかく、必死でもがいた。

 そんな飯野さんの姿を見て、サラリーマン時代の先輩が声をかけてくれた。退院翌年の15年3月、武蔵小山の珈琲店で配膳の仕事を手伝うことになった。

ラーメンをふるまう飯野さん(筆者撮影)
ラーメンをふるまう飯野さん(筆者撮影)

 かき氷が人気のお店だったため、冬場の寒い時期は売り上げが厳しくなる。もう一本柱が欲しいという話を聞き、飯野さんはラーメンを提案した。昔から温めていたレシピがあり、今がチャンスだと思った。舌はまだしびれていて、味の感覚も厳しかったが、周りの人たちに味見をしてもらいながらラーメンを作った。これが好評で、レセプションを開けばラーメン評論家やグルメライターなどが集まり、口コミがどんどん広がっていった。

「こんなに美味しいラーメンが作れるんだから、自分のお店をやった方がいい」という声もお客さんからたくさん上がっていた。

 舌のしびれは多少残るが、前に比べると味もわかるようになってきた。お店をやりたい気持ちもある。だが、体力はまだない。どうしたらいいか、友人に相談を始めた。すると、都立大学駅のあるバーから、昼間限定で間借り営業の誘いがやってきた。

「昼だけなら体力が持つかもしれない」

 16年1月に間借りでラーメン店をオープンさせる。珈琲店で出していたラーメンの評判やメディアの反響もあり、人気店に成長する。その後、11月には友人と共同で六本木のバーを間借りしてもう1軒、ラーメン屋を開店。少しずつ体力も戻り始め、ラーメン店のプロデュース業にも拍車がかかってくる。そんなある日、以前立ち上げを手伝った鵠沼海岸のレストランのオーナーから、「資金援助をするから、自分のお店を立ち上げたらどうだ」と誘いを受ける。

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「いつかは舌が戻ると信じて」