東京・日比谷通り。背景には「第一生命館」「帝国劇場」などの名建築が広がる(撮影・諸河久:1964年1月1日)
東京・日比谷通り。背景には「第一生命館」「帝国劇場」などの名建築が広がる(撮影・諸河久:1964年1月1日)
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 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、特別編として、1月2日と翌3日に実施される「箱根駅伝」のコースを、いまから50年以上前に走っていた往時の路面電車で振り返ってみる。

【貴重なカラー写真で振り返る増上寺や、三田、横浜・生麦など、50年以上前の写真はこちら】

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「箱根駅伝」として、いまや正月の風物詩となった「東京箱根間往復大学駅伝競走」(関東学生陸上競技連盟主催)の第95回大会が1月2日、3日にわたって開催される。新春恒例の学生スポーツイベントとして国民的人気を博しているのは、もはや言うまでもないだろう。

 駅伝の使用するコースには、かつて路面電車が走っていた路線が多数ある。箱根駅伝の1区(東京・大手町~鶴見中継所)で「東京都電」と「川崎市電」、2区(鶴見中継所~戸塚中継所)で「横浜市電」、4区(戸塚中継所~小田原中継所)で「箱根登山鉄道・小田原市内線」とそれぞれコースの路上を共用したことになる。なお、実際は交通規制などがあり、路面電車が走っていなかったことも考えられる。このコラムではあくまで、走っているのはランナーではなく車両だということをご理解いただき、当時を懐かしんでもらいたい。

 スタート地点である東京・大手町の読売新聞本社前から日比谷通りを一丸になって疾走する光景が展開する。この日比谷通り(都道409号線)には都電・神田橋線(日比谷公園~小川町)と三田線(三田~日比谷公園)が敷設されていた。両線で駅伝コースとなった三田~大手町は、1967年12月から1968年9月にかけて路線が廃止されているから、1968年1月に実施された第44回までは箱根駅伝と都電が共生したことになる。1968年は日本大学が往路・復路を制して総合優勝に輝いた。

 写真は馬場先門から日比谷公園に向う25系統日比谷公園行きを写した。日比谷通りの西側歩道から都電にカメラを向けている。この区間は25系統のほか、2、5、35、37の五系統が行き交う都電の“ホットコーナー”のひとつであった。1964年1月1日の撮影で、翌日が箱根駅伝の発走日だった。ちなみに1964年の第40回は中央大学が往路・復路を制して総合優勝している。

 都電の背景に、多くの名建築が展開する。右端の建物は1938年に竣工した第一生命の本社ビルである「第一生命館」。終戦後はGHQに接収され、マッカーサー元帥の居城となり、現在も当時の執務室が保存されている。

 映画「アラビアのロレンス」の看板が掲げられた白亜の殿堂が1911年に竣工した「帝国劇場」。その奥が1922年竣工の「東京會館(現・東京會舘)」の旧き佳き(ふるきよき)偉容だ。1923年9月の関東大震災後の火災で帝国劇場は内部を全焼し、東京會館は二階部分を損壊している。双方とも昭和初期に内装を復旧して営業を再開している。帝国劇場は1966年、東京會舘は1971年に建替えられ、皇居の内堀に沿った優雅な風情は都電とともに失われた。

 スタート間際の駅伝ランナーはひたすらに前を目指しているはずだ。眼前に展開した洋風建築や皇居の景観などを観賞する余裕が全く無かったことだろう。

芝増上寺山門前の芝公園停留所付近。うっとりするような佇まいだ(撮影・諸河久:1967年12月6日)
芝増上寺山門前の芝公園停留所付近。うっとりするような佇まいだ(撮影・諸河久:1967年12月6日)

 続いての写真は、芝増上寺山門前の芝公園停留所で発車を待つ5系統永代橋行き。山門の正式名は「三解脱門(さんげだつもん)」と呼ばれ、1622年建立の二重門で国の重要文化財に指定されている。芝公園停留所は開業時には山門前と呼称されており、三田線の芝公園には5系統のほか、2、37の三系統が運転されていた。1967年12月9日に路線が廃止される3日前の撮影だった。当時は貴重かつ高価なカラーポジフィルムだが、増上寺の伝統ある佇まいとその前を走る都電の色彩が、美しい対比を描いている。

 箱根駅伝の当日は、さほど広くない電車道を走る都電はどのような交通規制を受けたのだろうか。1967年は第43回の箱根駅伝にあたり、この年と前述の翌1968年は日本大学が連覇を果たしている。

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