54年前の高田馬場駅周辺。この日は営団地下鉄(現・東京メトロ)東西線・九段下~高田馬場の開業日だった(撮影/諸河久:1964年12月23日)
54年前の高田馬場駅周辺。この日は営団地下鉄(現・東京メトロ)東西線・九段下~高田馬場の開業日だった(撮影/諸河久:1964年12月23日)
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 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、早稲田大学のホームタウンといえる高田馬場(たかだのばば)駅前の都電だ。

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 国鉄山手線に高田馬場駅が開業したのは1910年で、開通当初から開業していた隣接する目白駅に遅れること25年だった。駅名は元禄時代の伝説である「高田馬場の決闘」があったことで知名度が高まった「高田馬場(たかたのばば)」から取られたが、なぜ駅の読み仮名を「たかだのばば」としたのかは不明だ。

 1928年、前年に仮駅として山手線の西側に開業していた旧西武鉄道の高田馬場駅が、立体交差工事の完成により山手線東側に乗り入れた。戦時中の旧武蔵野鉄道との合併を経て、現・西武鉄道新宿線のターミナルとなった。1952年、新宿線は西武新宿駅に延伸され、始発駅の座は失ったが、JR山手線や東京メトロ東西線への接続駅として多数の乗降客で隆盛を遂げている。

 高田馬場駅前に都電が敷設されたのは国鉄駅が開業してから39年後の1949年12月だった。現在も存続している都電・荒川線の面影橋~学習院下にある分岐点から、都電・戸塚線として延伸され、戸塚二丁目を経て高田馬場駅前まで約900mの路線として開業した。

昭和39年4月の路線図。高田馬場駅界隈(資料提供/東京都交通局)
昭和39年4月の路線図。高田馬場駅界隈(資料提供/東京都交通局)

 戸塚線を走ったのは15系統で、起点の高田馬場駅前を発して面影橋~江戸川橋~飯田橋~九段下~小川町~大手町~茅場町に至る9406mの路線。戦前は19系統の早稲田~洲崎として運転され、その後14系統・早稲田~不動尊前になり、戦後の戸塚線開業で15系統となった。戦前の伝統から、朝夕は臨時15系統として茅場町から隅田川を越えて洲崎まで延長運転された。早稲田から洲崎まで約11000mのロングランだった。

 高田馬場駅前から都電の姿が消えたのは、15系統が廃止された1968年9月のことだった。

 写真は、その都電が姿を消す4年ほど前の12月23日。高田馬場駅前停留所を発車した15系統神保町行き。高田馬場駅の東側から駅方面に向かって写した一コマだ。

 この日は、営団地下鉄(現・東京メトロ)東西線・九段下~高田馬場の開業日であった。営団としては初めての車体長20m・四扉仕様のステンレス車5000系がデビューした日でもある。九段下までの部分開通のため、短い3両編成で運転されていたことを記録している。都電の後部に新設されたばかりの地下鉄乗降口と営団のエンブレムが写っている。

 当時、都電が走る駅前を東西に貫く早稲田通りは狭隘(きょうあい)で、折り返しを待つ都電と都バスなどが輻輳する朝夕のラッシュ時には、ひどい交通渋滞が起こっていた。

 背景の駅前商店街はちょうど歳末大売り出しの季節で、生活感のある佇まいがとても懐かしい。加えて、クリスマスを目前に街が賑わいを見せていた日でもあった。なお、若い読者はご存じないと思われるが、クリスマスに人々が盛り上がるのは当時も同じで、クリスマスイヴの銀座は「中央通り」が人いきれになるほどごった返した。

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