2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、麦酒(ビール)工場のブランドを命名されて発展した恵比寿駅前の都電だ。
【約50年が経過した現在の恵比寿駅周辺はどんな姿に? 写真はこちら】
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「住みたい街」などのランキング調査では常に上位に並ぶ人気の街、恵比寿。立地は渋谷にほど近いながらも若者の喧騒とは異なる、都会的で「大人」が楽しめるグルメな飲食店が軒を連ねる。この街の成り立ちも、都電が大きく寄与している。
写真は、恵比寿駅前停留所に到着する都電「8系統」中目黒行きを、築地行き停留所から撮影した。終点まであと二停留所だから乗客もまばらだ。
撮影した年の3月25日に霞ヶ関~恵比寿間に開通したばかりの営団地下鉄(現・東京メトロ)日比谷線が都電通りの真下を走っており、恵比寿駅の乗降口が写っている。その構図は現在と似通うところもある。日比谷線は1964年8月29日に全線が開通。中目黒や恵比寿から都心方面への乗客が日比谷線に移行し、8系統もその使命を終えようとしている時節だった。
背景に写っているのは恵比寿駅を発車する国鉄(現・JR)山手線101系でカナリヤ色の外装だった。写真右端には恵比寿駅舎の一部が写っているが、まだ木造のままで時代を感じさせてくれる。1889年、「エビスビール」を製造・販売する日本麦酒醸造会社(現・サッポロビール)の工場がこの地に開業。1901年、山手線にビールの銘柄名から駅名を「ゑびす停車場」と命名した出荷専用の貨物駅が開設された。
国鉄恵比寿駅前を走っていた都電8系統の路線名称は「中目黒線」といった。中目黒線は天現寺橋線の支線として敷設され、中目黒から渋谷橋まで、中間に下通五丁目、恵比寿駅前の二停留所を有する1414mの路線だ。
営業距離は短いながらも目黒区側から都心に向けて利用される都電として地域住民に愛された中目黒線。その出自は複雑で、なかなか興味深い。
玉川電気鉄道は国鉄・山手線内側への路線延長を目論んで、1922年に渋谷駅~天現寺橋を結ぶ天現寺線の敷設に着手し、1924年に天現寺橋まで全通させている。天現寺線の支線として敷設を計画されたのが、旧恵比寿駅前を改称した渋谷橋から、山手線の高架下をくぐり終点中目黒に至る目黒線だった。目黒線の開通は昭和になった1927年3月で、渋谷橋からは天現寺線に乗り入れ、天現寺橋まで走る運行形態であった。