2016年の春、『築地市場クロニクル1603~2016』を上梓した。築地市場は、その秋に豊洲へ移転することになっており、ここで働いて20年近くになる私は、市場の記録を残しておきたかったのだ。日々の仕事、ルーツである日本橋魚河岸と大根河岸のこと、生みの苦しみを伴っての開場、戦争と復興、伝統や風習など、それらを語ってくれる写真を探し集め、一冊にまとめた。

 さあ、これで心おきなくお引っ越し、と思っていた矢先、8月のことだ。小池百合子新都知事の移転見直し宣言があった。すでに場内は移転に向けてまっしぐら、そこに延期の爆弾宣言。「2016年11月築地市場閉場」と銘打った私の本は、いきなり居心地の悪いものになってしまった。残念なことになったが、でも、さほど悲観はしなかった。全力投球したし、その結果を認めてくださるような書評を移転延期後もいただいており、築地場内の書店では、ずうっと一等席に置いてもらった。

 ただし、ちょっとだけ心に引っかかるものがあった。日々を過ごしている施設、建物についての記述が手薄だったのだ。歴史はともかく、仕事、伝統や風習は、豊洲でもくり返される。しかし、建物は……。移転後、跡地は2020年開催の東京オリンピック・パラリンピックの輸送拠点として整備される。都内の競技場と臨海部にできる選手村や競技場を結ぶ大動脈、環状二号線上に位置する広大な跡地は、輸送拠点にうってつけらしい。そして、20年以降は再開発が始まる。そのため、施設は解体される予定だ。永遠に失われるものに対して、薄情だった。手薄だった大きな理由は、資料が少なかったせいだが、16年の暮れ、都市問題の専門図書館、日比谷の「市政図書館」に、建物関係の資料が埋まっていることを知った。

 明治の近代化のなかで生まれた「欧米のごときセントラルマーケットを」という悲願、これを達成するために、官庁の役人、東京市議会議員、はては魚河岸のダンナまで、欧米の先端市場を視察し、報告書を残している。悲願は、関東大震災による帝都復興事業として実り、復興事業中、最大規模であっただけに建物についての資料も多い。そこに描写される竣工なったばかりの建物は「白亜の楼館」だとか「欧米にも負けない施設」と手放しの絶賛にあふれている。1933年12月13日の竣工式は、千発の花火と首相以下のお偉方や市場関係者1500名が招待され、一年後の開場式典とは比べものにならないほど盛大だった。

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