ザ・ローリング・ストーンズ初期の代表曲の一つに《タイム・イズ・オン・マイ・サイド》がある。1964年に録音され、シングル・ヒットも記録したこの曲の歌詞が描いているものは、ジャガー/リチャーズのオリジナルではなかったとはいえ、若い彼らの正直な想いであったはず。ところが、それからちょうど10年後、1974年発表のアルバム『イッツ・オンリー・ロックンロール』に彼らは、対照的な《タイム・ウェイツ・フォー・ノー・ワン》という曲を収めている。「時は味方」と「時は残酷」。どちらもポピュラー音楽の普遍的なテーマであり、あまり深読みしないほうがいいのかもしれないが、ぴったり10年の間隔をおいて、というところになぜか興味をひかれてしまう。
さて、深読みというか寄り道はそこまでにして、この連載の本来のテーマであるギター・ソロに話を戻そう。シングルには選ばれず、ストーンズの公式なライヴではおそらく一度も取り上げられたことがないはずの、どちらかといえば地味な印象の曲をここで取り上げた理由は、後半、3分近くにわたって弾きつづけられる、なんとも美しく、哀しく、叙情的なギター・ソロだ。弾いているのは、キース・リチャーズではなく、ミック・テイラー。じつはそれは、25歳の若者からの、世界の頂点に立つバンドへの訣別のソロでもあった。
1949年生まれで、ロンドンからも遠くないハットフィールドという地域で少年時代を送ったミック・テイラーは、早くからギターをはじめて友人たちとバンドを組み、十代半ばだった65年、最初のチャンスをつかんでいる。多分に脚色された話かもしれないが、仲間たちと地元のクラブにジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズのライヴを観にいくと、その日はエリック・クラプトンが不参加だったため(規律に厳しいメイオールに反発し、別行動をとっていた時期か?)、代わりに何曲か弾いたというのだ。
そのプレイがメイオールの印象に残ったようで、2年後の67年には、クラプトンの後釜だったピーター・グリーン(フリートウッド・マック)のさらに後任としてブルースブレイカーズに迎えられている。そして、69年夏。すでにブライアン・ジョーンズの離脱が避けられない状態になっていたストーンズのセッションにメイオールの推薦もあって招かれ、『レット・イット・ブリード』に貢献したあと、7月5日のブライアン追悼コンサートで、二十歳の彼は、いきなり数十万のオーディエンスを前に、正式な新メンバーとして紹介されたのだった。
その後、『スティッキー・フィンガーズ』『エグザイル・オン・メイン・ストリート』『ゴーツ・ヘッド・スープ』の3作品と、1972年から73年にかけての大規模なツアーでキースのギター・パートナーとして働いた彼は、英国人的感性できっちりとブルースを吸収したプレイによって、着実に評価を高めていった。また、ギリシア神話に登場する美少年といった風情のルックスで、ストーンズのファン層をさらに広げていったに違いない。
映像作品にも残されたその長いツアーが終わり、ストーンズが次のアルバムの制作に着手したとき、しかしキースは、ドラッグなどの問題もあってなかなかセッションに顔を出さなかったらしい。結果的に曲づくりはミック主導で進められることになり、たとえば中心トラックとなる《イッツ・オンリー・ロックンロール(バット・アイ・ライク・イット)》には、ロン・ウッドが大きく関与したといわれている。僕はストーンズ・フリークではないのでこれ以上は踏み込まないが、ミック・テイラーも2曲でジャガーのソングライティングをサポートしたそうで、そのうちの1曲が《タイム・ウェイツ・フォー・ノー・ワン》だった。
繰り返しをお許しいただくとして、その、いわば隠れた名曲でミック・テイラーが残したソロは、ひたすら美しく、哀しい。だが、最終的に自分の名前が共作者としてクレジットされなかったことなどが引き金となり、アルバム発表後、彼はバンドを去ってしまう。ちょうどクラプトンが初来日をはたしたころに届けられたこの曲を、21歳の僕はわけもわからぬまま、何度も、何度も聴いたものだ。
それから約40年後となる2012年。ミック・テイラーはストーンズ50周年ツアーのロンドン公演にゲスト参加しているのだが、体型が大きく変化してしまった彼がミックやキースと仲よくステージに立つその映像を観て僕は、「時は優しく、残酷でもある」と、そう思った。[次回7/19(水)更新予定]