1年生の一発で勢いづいたPLは7対0と完勝し、球史に残るジャイアントキリングを達成。翌日の決勝でも横浜商を3対0で下し、5年ぶり2度目の夏制覇をはたした。
その横浜商戦では、桑田が2回1死二塁のピンチに絶妙のけん制球で二塁走者を刺す。横浜商・小倉清一郎コーチ(後に横浜高野球部長)に「桑田はセットに入ったら、二塁を1度しか見ない」と見抜かれ、1回に三盗を許したが、すぐさま修正し、序盤のピンチを切り抜けたのは、とても15歳の少年とは思えない適応力だった。
その裏、甲子園入り後に体調を崩し、前日の池田戦で水野に4打数4三振に抑えられた清原が右翼ラッキーゾーンに甲子園第1号の先制ソロ。7回途中までゼロに抑えた桑田とともに優勝の立役者となり、「PLにKKあり!」と謳われた。
1年夏に頂点を極めたKKはその後、当然のように5季連続で甲子園にやって来たが、「ずっと(頂上を)維持しなければならない」(桑田)という悲壮感のような重圧から、翌84年春は岩倉、夏は取手二に敗れ、いずれも準優勝。85年春も準決勝で渡辺智男の伊野商に敗れた。
中村監督も「周囲から“優勝して当然”と思われている選手たちも僕も苦しかった」と回想するが、伊野商に敗れ、初めて決勝に進出できなかったことが、「悔いのないように楽しくやろう」と気持ちを切り替えさせてくれた。
そして85年夏、“呪縛”から解き放たれた最強軍団は、初戦の東海大山形戦で大会史上最多の29得点を記録するなど、圧倒的な強さで勝ち上がり、決勝で宇部商と対戦した。
だが、連投で疲れがピークに達した桑田は起床時間になっても体が動かず、清原も前日の準決勝、甲西戦で右足ふくらはぎを痛め、KKともにベストにほど遠い状態だった。
普段はけっして弱音を吐かない桑田が「何とか3点までに抑えるから4点は頼む」とナインに頭を下げた。その姿を見た清原は「あいつが苦しいとき、助けてやれるのはオレだ」と意を決した。