〈毎日、何百人という人がカゴを抱えて並び、財布を開き、レシートを受け取り、何事もなかったように立ち去っていく。それはとてもシンプルな動作に見える。だが、ある時から、私はその一つひとつの動作の背後に「生活」があることを意識するようになった〉

 と始まるそのゼミ生河村和奏(わかな)のノンフィクションは、そうした何百人の客のなかのある女性客の買い物の変化を追っている。毎晩きまった時間にあらわれるその女性は、髪を明るくそめた美しい人で、河村はひそかに憧れをいだく。

 いつもは、夜9時ごろ、ひとりでワインと惣菜を買っていく。女性誌の編集者だろうか、とてもファッションが垢抜けている。

 ところが、ある日その女性のカゴからワインと惣菜が消えた。そのかわりに「野菜や白身魚、味噌、そして無糖のヨーグルトが綺麗にたたず」むようになったのだ。

 なにが起こったのか? その謎解きを河村は一年の時間をかけてしていくのだが、一人の女性の人生における大きな変化を、買い物から描くという佳品だった。

 その女性は、妊娠をしていたのだった。この作品は、嬰児(みどりご)を抱えた彼女が夫と一緒に買い物にやってきたところで終わる。

 1975年の沢木青年のアルバイトと、2025年の聖心女子大生河村和奏のアルバイト。まったく違うように見えて、響きあうものがあるのはなぜか? 今でも、河村のような学生に刺激をあたえ、小品のノンフィクションを書かせてしまう、沢木さんの作品の力はどこから来ているのだろうか?

 そんなことを考えていたのだが、その答えとも言える本が送られてきた。

真(まこと)は巷(ちまた)にある それが原点

 沢木耕太郎『暦のしずく』(朝日新聞出版)。

 本は帯に「時代小説」とあるが、実は「ノンフィクション」について大切なことを教えてくれている本だ。

 この本の主人公の講釈師馬場文耕は江戸中期の人だが、きわめて史料が少ない。しかし、たったひとつわかっていることがある、それは、自分が民に語ったその「講釈」の中身を咎(とが)められて、獄門(死罪)になったということだ。

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