胴上げで宙を舞う古葉竹識監督(写真提供・日刊スポーツ)
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 今から50年前の1975年、前年まで3年連続最下位だった広島が“赤ヘル旋風”を起こし、球団創設26年目で悲願の初Vを実現。樽募金の時代からチームを応援しつづけてきたカープファンにとって、終生忘れがたいものになった、あの1年を振り返ってみよう。

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 1949年に親会社を持たない唯一の市民球団として誕生した広島は、経営難から選手の給料が遅配になるなど、51年に早くも解散危機に陥る。だが、球場の入り口に酒樽を置いて募金を呼びかけると、「カープを助けにゃいかん」と市民たちがひと肌抜ぎ、球団存続に必要な約400万円が集まった。

 選手たちもファンの熱い思いに応えるべく奮闘したが、上位の壁は厚かった。根本陸夫監督時代の68年の3位が唯一のAクラス。25年間で8度も最下位に沈み、72年からは3年連続テールエンドだった。

 そんな万年Bクラスのチームを翌75年、NPB史上初の外国人監督(日系人を除く)として率いたジョー・ルーツ監督が劇的に変える。

 前年1軍打撃コーチとしてチームを見てきたルーツ監督は、負け犬根性を払拭するため、紺色だったヘルメットを“情熱の色”赤に変えた。当時の日本で赤を用いるチームはなく、主砲の山本浩二も「(初めは)恥ずかしかったよ。オープン戦で相手チームから散々冷やかされてな」と回想する。

 戦力面でも、ルーツ監督は積極的なトレードを行い、日本ハムから内野手の大下剛史、阪急からリリーフの宮本幸信、渡辺弘基らを獲得。「日本の野球向き」と自ら獲得したシェーン、ホプキンスの両助っ人も貴重な戦力になった。

 また、作戦面では、「セオリーどおりの野球では、上位チームに勝てない」と積極果敢な走塁を中心とする機動力野球を推進した。

 新監督の大リーグ仕込みの意識改革が成果を出しつつある一方で、日本人選手の気持ちや日本の野球の実態を無視するような言動もあり、オープン戦の頃からコーチや選手と意思疎通を欠く場面も見られるようになった。

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