私は、大学で研究室に遊びに来た学生に本を貸すことがよくあります。読みたそうにしている学生がいたら、「いいよ、それ貸してあげる」といって本を貸します。

 しかもそのさい、「本を読んで何か思うことがあったら線を引いたり、マーカーや付箋、折り目をつけてもいいよ」とも言います。

 結構、これに学生はびっくりするようです。自分の本のように扱ってもいいというわけですから。

 ここでもコントロールの放棄が関係しています。相手に自分の持ち物を貸すということは、たとえ一時的にであれ、その物のコントロール権を相手に手渡すことです。当然ですが、たまに本の一部が破れてしまったり、醤油のシミがついていたり、大雨でカバンに入れたままだったせいか本が濡れてしまい、シワシワになって返却されてくることもあります。

 でも私自身は、本を貸すということは、そういうことだと思っているので、特に気にしていません。

 むしろ、そのようにして通り抜けていった学生たちの痕跡が残る本が研究室に溜まっていくのがとても興味深いと思っています(ただし、最近はあまりにも行方不明になってしまう本が多くなってきたので、貸し出しノートのようなものをつけるようにもしました)。

 またたとえば、料理などで「やさしい味」がすると言ったりもします。多くの場合、素材の味がそのまま生かされたほっこりする味のことですが、ここで起きていることも実は同じです。

 食材などを調理するさいに切り刻んだり、調味料をいろいろ入れたり、食材をコントロールしようとしないこと、食材のよさがそのまま表れるように自分のコントロール権を食材そのものに手渡すことでもあります。
 

やさしいがつづくなんて不可能?

 このようにこの定義を用いると、いろいろと応用もできるようになります。たとえば、

・コントロール権を手放すふりをして結局は手放さないでいることは、やさしくないことになります。

・相手が望んでいないのに、あなたのコントロール権を手放し、委ねることは、やさしくないことになります。

・コントロール権は手放し、相手に委ねていても、その結果起こることに一切責任を取らないことは、やさしくないことになります。
 

 こうなってみると、やさしいがつづくなんて不可能なのではないかとも思えてきそうです。

 そしてスタート地点はここにあります。

 私たちはこのことをしっかりと理解した上で、あらためて「やさしい」との付き合い方を考えていく必要があるのです。
 

[AERA最新号はこちら]