
身近な人間関係において、最初は熱意や思いやりがあったのに、今は当時のように振る舞えない。多かれ少なかれ思い当たる人は少なくないだろう。ものごとをありのままとらえようと試みる「現象学」を専門とする哲学者の稲垣諭さんは「やさしいは実はとても恐ろしいこと」と説く。新刊『やさしいがつづかない』(サンマーク出版)より、「やさしいはこんなにも困難である」を抜粋する。
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相手に委ねるだけでは「やさしくない」
拙著『やさしいがつづかない』が定義する「やさしい」は、2つの条件を兼ね備える必要があります。
① コントロール権を手放し、相手に委ねること(ソフトな意味でのやさしさ)
②その結果、起こることの責任は引き受けること(ハードな意味でのやさしさ)
①の定義だけだと、どうしてまずいのでしょうか。
たとえば会社の上司が、部下に対してある案件の企画から実行までを「任せる」と言って、企画のコントロール権を部下に手渡したとしましょう。
しかしその後、もし部下がその案件において致命的なミスをやらかした場合、上司がその責任を引き受けないことがしばしばあります。
これは業務の「丸投げ」であり、責任を部下に押し付けるだけの行為になります。「好きにしていい」という放任は、一見やさしいように思えても、それが相手の自己責任でしかないならば負担を課すだけのやさしいとは真逆の行為になります。
それとは逆に、上司がコントロール権を手放すふりをして、結局手放さないということもよく起こります。部下に対してあるプロジェクトを任せると上司が言ったにもかかわらず、あれこれ口を出してきて、自由にさせてくれない場合、その上司は結局部下をコントロールしていたいのです。
それは「いいよ」と言いながら同時に「ダメだ」と言っているようなものですから、渦中にいる部下は疑心暗鬼となるでしょう。
