『今日は昨日のつづき』に収められた詩のうちいくつかは、かつて私が担当していた時期の作品だ。自分が幼い頃から親しんだ本の筆者に「詩の感想を聞かせてよ」と言われ、なんとか思いを伝えようとしたことがなつかしい。

「未来を生きる人たちへ」には企画当初から携わり、ディレクターとして取材現場に臨んだ。季節をまたぎ、数回にわたって谷川さんの自宅で取材を進めたが、その場で「芝生」の朗読を聞いたことは、とくに印象ぶかい。

〈なすべきことはすべて 私の細胞が記憶していた だから私は人間の形をし 幸せについて語りさえしたのだ〉

 そこには、声の揺らぎと空間のしじまが結びついた、言葉の胎動があった。人の世で与えられた「意味」のくびきを離れ、言葉が言葉として、たたずんでいた。

 思い出とともに、これらを読み進める。本として、あらためて行をたどるうち、以前は見過ごしていたある共通点に気が付いた。すなわち、彼が言葉にたいして抱く、深い「もどかしさ」だ。『今日は昨日のつづき』に収められた作品のなかに、たとえばこんな一節がある。

〈在ると言うとなくなってしまいそうで 言葉がもどかしかった 言葉で言うことができなかったから ただ心で思っていた〉(「思うだけ」から)

 人が使役する言語だけでは、ついぞ達しえない何かがあることへの確信。そして、その何かが憩う原初の世界にむけられた、はるかな望郷。『行先は未定です』に記された発言も、胸中の端的なあらわれにうつる。

〈でもなかなか言葉というのが邪魔して なんか自然じゃなくなるわけね どうしても限界があって もどかしさを感じたりすることはおおいにありますね〉

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