ロッテで2年プレーしたあと、ホールは観客の多いセ・リーグでのプレーを望み、95年に中日移籍。ただ、膝の故障で出場50試合の打率.236、12本塁打と低迷し、たった1年でクビになった。なお、帰国後の2007年6月、バスケットコーチ時代の教え子だった未成年の少女2人へのわいせつ行為で逮捕され、禁固45年の刑を命じられた。

 これまで来日した助っ人の中でも“史上最狂”といわれているのが、90年に中日でプレーしたベニー・ディステファーノだ。

 パイレーツ時代にその狂暴ぶりから“ベニー・ザ・エキサイティング”の異名をとった新助っ人は、開幕前のオープン戦でいきなり本領を発揮する。

 3月15日の西武戦、8回に鹿取義隆から背中に死球を受けたディステファーノは「シーット(くそったれ)!」とぶち切れると、バットを鹿取目がけて投げつけたばかりでなく、止めようとした捕手の大宮龍男にも顔面パンチを何発もお見舞い。大宮も負けずに反撃したことから、両軍入り乱れての大乱闘に発展し、ディステファーノはオープン戦では前代未聞の暴行で退場処分となった。

 さらにシーズン開幕後も5月24日の巨人戦で、危険球の抗議中、松原誠コーチの野次に激高した星野仙一監督が巨人ベンチに“殴り込み”をかけると、直接関係のないディステファーノも当然のように参戦。選手たちを守ろうとして前に立ちふさがった江藤省三コーチの顔面に強烈なパンチをお見舞いして、2度目の退場となった。

 だが、グラウンドでの暴れっぷりとは裏腹に、本職の打撃は打率.215、5本塁打とサッパリ。シーズン途中で解雇され、「乱闘だけして帰って行った男」と呼ばれた。

 ダイエーのミッチェルといえば、“サボリ病”と2度にわたる無断帰国で名を馳せたお騒がせ助っ人、ケビン・ミッチェルを思い出すファンも多いはずだが、ダイエーにはもう一人、トニー・ミッチェルという“伝説の暴れん坊”が在籍していた。

 前出のケビンのいとこにあたり、2001年に来日。球団は当初その事実を知らなかったが、その後、あの問題児の血縁者と知ると、“要警戒モード”になった。

 幸いトニーはケビンとは違って、球団と揉めることはなかったが、シーズン開幕後、グラウンドでいとこ譲り(?)の気の荒さを発揮することになる。

 4月26日の日本ハム戦、8回の打席で高橋憲幸から左腕に死球を受けたことが事件の引き金となった。

次のページ 20人がかりでも止められぬ暴れぶり