
空中飛行に、狐の妖術。室町末期を生きた細川政元は、足利将軍を追放するなど戦国時代の引き金を引いたキーパーソンでありながら、魔法習得の修行に没頭した、史上稀に見る権力者だ。
室町末期に詳しい古野貢教授は、著書『オカルト武将・細川政元』の中で、将軍擁立をめぐる、政元と日野富子との確執について言及している。
新刊「『オカルト武将・細川政元 ――室町を戦国に変えた「ポスト応仁の乱の覇者」』(朝日新書)」から一部を抜粋して解説する。
* * *
政元の生涯において一番目立つ事件である明応の政変を紹介するためには、この事件のもう一方の主役である足利義材(よしき)が将軍として歴史上に現れるまでを説明しなければなりません。
前章で紹介した通り、足利義政の子である足利義尚は近江国へ出陣し、一四八九年(延徳元)に病気で死んでしまいました。その翌年、政元も京都に帰ってきます。
さて将軍が死んでしまったので、後継ぎが必要になります。しかし義尚はまだ若かったので、男子を一人ももうけていませんでした。では、どうしたらいいのか。そこで登場したのが足利義材です。
この人物は義尚の対抗馬として応仁の乱を戦った足利義視(義政の弟)の子です。乱が終わった際、義視と義材の親子は京都を追われて美濃で暮らしていました。その二人が、義尚の死後に京都へ呼び戻されるわけです。
義尚の後継者候補として考えた際、義材は義尚の子ではありませんし、足利義政・日野富子夫婦にとっても直系ではありません。しかし、血筋としては一番将軍に近いのはこの人だろう、この人しかいない、という空気があったものと思われます。富子などは「他にどうしようもないから義材を支持する」という心持ちだったのでしょう。
義材の母が富子の妹で、代々将軍を産んできた日野家の女性だということもあったと思われます。また、畠山政長や尚順父子など、他の有力守護たちにも「それが一番の選択肢である」というような空気感があったものと思われます。
ところがたった一人、政元だけが別の人材を担ぎ上げてきます。