それが京都の天龍寺の香厳院という塔頭にいた清晃という僧侶で、足利義政からすれば甥に当たる人物です。父親は義政の弟である足利政知で、この人は鎌倉公方として関東へ派遣され、この時点では伊豆国にいました。ですから清晃は血筋的には六代将軍・足利義教(よしのり)の孫にあたります。
日野富子らが清晃ではなく義材を擁立することを認めた背景のひとつに、聖俗の差があったと考えられます。清晃は出家している僧侶ですが、義材は俗人です。なぜ、清晃は足利将軍家の血筋でありながら出家したのでしょうか。
前近代社会では、将軍家などのイエを保つために、後継者を用意することが当然でした。
当時は子どもが生まれても病気や戦争などによって落命する可能性が高かったため、後継者を必要とするイエでは、複数の候補者を準備することになります。母違いを含め、複数の男子が用意されるのです。
しかし後継者を決める過程で選ばれなかった人物がいると混乱の元になります。しっかりと後継者を支える兄弟もいますが、多くの場合、家督争いの火種となります。この火種を消すために、後継者とならなかった人物の多くは出家し、俗世間との関係を絶つことになります。
清晃はすでに出家していたため、一般的には後継者候補にならない(ならせない)存在であったはずです。積極的ではないにせよ日野富子らが義材を認めたのには、そうした状況もあったはずです。
そして血筋として見た時、清晃は義尚の後継者としては「可能性がないわけではないが、あまり筋が良くない(血筋が正しくない)」存在とされ、清晃は将軍後継者レースから外れてしまい、義材が十代将軍になります。
この時の政元の心情について考えてみると「自分が推した候補者が負けた」「日野富子が、自分が戦った義視の息子を推すことは理解しがたい」「自分にフォローしてもらってきた畠山氏が義材につくことも理解しがたい」という具合に、おかしい、不満だ、という気持ちはあったのでしょう。
ここまで見てきた通り、幕府全体の空気感としてはおかしくないのですが、その幕府における最有力者である政元の意思は反映されていません。その結果、政元と日野富子や畠山政長といった他の幕府有力者たちの間になんとなく隙間風のようなものが吹いてきます。この距離感はのちの展開に影響を与えてきます。
このような背景のもとで、義材が将軍になった時期は、政元が呪術などのオカルトに傾倒していくひとつの転機になったと考えられます。自分の構想や思惑とは異なる流れが生まれ始めた時に、「ではどう対抗すればいいのか」と試行錯誤した結果、オカルト的なものが目立ち始めたのではないかと思われます。
実際この頃から、政元について「屋敷から陀羅尼経が聞こえてきた」「屋敷に変なものがぶら下がっていた」という話が出たり、「天狗の修行をした」「飯綱の法を学んだ」という史料が書かれ始めるのです。以前からオカルト的なものを学んだり実践したりしていたのだろうと思われますが、それらが目立つようになってくるのがこの時期、つまり彼が成人した延徳年間なのだろうと考えられます。
『オカルト武将・細川政元』では、政元が織田信長よりも先に実行した「延暦寺焼き討ち」や、「魔法習得の修行」にまつわる史料などを詳述。教科書には載っていない、応仁の乱から信長上洛までの「空白の100年」を解説しています。
