中日時代は「読売にだけは負けるな」

 長嶋さんは、試合の前後や試合中に顔を合わせると、いろいろ声をかけてくれました。レフトを守っていて長嶋さんの大飛球をジャンプして捕ったときは「谷沢、一本取られたよ」って悔しがっていました。僕が足をけがした後、ロングブーツのスパイクを履いて復帰したときは飛んできてくれて、「お、なんだそれは長靴か?」「これからもっともっと頑張れよ」と気さくに言ってくれました。

 僕は最初外野でしたが、途中でファーストを守るようになったから、よくヒットを打った長嶋さんと一塁で一緒になったんです。手を広げて陸上選手のように走ってきて、「谷沢、どうしてる?」って。

 僕がプロ入りした70年は巨人の最盛期。73年にはV9を達成しています。本当に強かった。でも、長嶋さんの引退年にもなった74年は僕らが優勝しました。新聞戦争の時代でね、巨人に勝ったら報奨金も高くなる。そのうえ、中日の監督だった与那嶺要さんと巨人の監督だった川上哲治さんは現役時代毎年のように首位打者を争ったライバルです。読売にだけは負けるなと、ものすごい対抗意識を植え付けられました。それでも、長嶋さんはそうした対抗意識とは別格の「華」でしたね。

 その年の10月、長嶋さんのラストゲームは後楽園球場であったダブルヘッダーで、相手は中日ドラゴンズだったんです。でも、その日僕は出場していません。一軍半くらいの選手が試合に出て、そのころ僕らは名古屋で優勝パレードでした。出たかったですよ、長嶋さんの引退試合。試合が雨で順延した影響でパレードの日と重なったからなんだけど、普通、日本シリーズがまだなのに優勝パレードなんてやらないですよね。長嶋さんの引退試合のニュースを中日新聞の一面にしないために、わざとぶつけたんじゃないかと思ったほどです。高木守道さんなんかはすごい怒っていたな。ナゴヤ球場に戻ると、「わが巨人軍は、永久に不滅です」というあのスピーチがテレビで流れていました。

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