メッツへの移籍会見に臨む新庄剛志(左)とメッツのボビー・バレンタイン監督(2000年12月)

愛犬の待遇アピールでは勝っていた?

 江藤獲得に失敗した横浜は、その後もFA戦線に積極的に参戦する。00年オフは阪神からFA宣言した新庄剛志の獲得を目指した。全力で慰留する阪神、ヤクルトとの争奪戦になったが、当時の横浜の球団関係者は「条件面で阪神に見劣りし、移籍ならヤクルト有力との報道がありましたが、球団幹部は交渉で手ごたえを感じていたそうです。新庄さんは横浜の街を気に入っていましたしね」と言う。しかし新庄は会見で突然、ニューヨーク・メッツとの契約を発表し、球界を騒然とさせた。球団関係者は、「メジャー挑戦でメッツに移籍するとは想像できなかった。当時から規格外の生き方でしたね」と苦笑いを浮かべる。

 横浜は翌01年オフには中日の長距離砲・山崎武司のFA獲得に動いた。実際に横浜移籍が有力視されたが、土壇場で破談になってしまう。中日の新監督に就任した山田久志に山崎が説得され、残留したためだ。だが、人生はどう転ぶか分からない。山崎は山田監督とソリが合わず、トレード志願して翌年にはオリックスに移籍した。

 03年オフには阪神の先発左腕、下柳剛のFA獲得を目指した。交渉は横浜と、残留を要請する阪神との一騎打ちになったが、下柳の愛犬・ラガーの待遇を巡る異例のアピール合戦がメディアで報じられて話題となった。当時横浜を取材していたスポーツ紙記者は「横浜は春季キャンプを行う沖縄・宜野湾でラガー専用の小屋を建てることを契約条件で提示しました。結局阪神残留となりましたが、『ラガーを大事にする気持ちは負けなかったんだけどな』と肩を落としていた球団幹部の姿が印象的でした」と明かす。

 横浜は02年から15年までの14年間で10度の最下位、10年連続を含む13度のBクラスという暗黒時代に突入する。江藤、新庄、山崎、下柳ら即戦力のスター選手たちをFAで獲得できていれば異なる成績となっていた可能性はあるだろう。だが、低迷期に入った大きな理由は別の「FA移籍」にあるという見方もある。当時横浜でプレーしていた主力選手が語る。

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