
英国在住の作家・コラムニスト、ブレイディみかこさんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、生活者の視点から切り込みます。
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英国でも連日、トランプ関税の報道でもちきりだった。先日も、米中の「関税の報復合戦」について、ザ・センター・フォー・チャイナ&グローバリゼーションのビクター・ガオがチャンネル4ニュースでインタビューを受けていた。鄧小平の通訳だった時期もあるという彼は、米国が中国市場から自らを締め出すつもりなら「Be my guest!(どうぞご勝手に)」「中国は5千年前からここにある。そのほとんどの期間、米国など存在しなかった。それでも我々は存続してきた」と強気で言った。
ヴァンス米副大統領による「Chinese Peasant(中国の小作農)」発言について尋ねられると、同氏は、「ヴァンスが中国の小作農とディールしているつもりなら、私は小作農の子孫であることに誇りを持っている。我々のほとんどは小作農の子孫だ」「ヴァンスは生半可な知識で適当なことを言っている」と言った。
ふと、思い出した短編小説がある。町田康氏の「本音街」だ。それは、人々が建前や社交辞令をいっさい口にせず、「馬鹿」とか「あほ」とか言い合っている街の話だ。SNSの投稿などを見ていて、「ここは『本音街』化している」と思うことはあったが、今や世界情勢にまでそれが染み出した。おまえらなんか小作農だ、うちは5千年の歴史があるんだぞ、と大国どうしが公然と言い合っている。
ポリティカル・コレクトネスへの反感が今の状況を生んだという見方もある。人々は建前や偽善はたくさんだと感じ、本音の清々しさを好むようになったと。しかし、だからと言って、現実の世界が清々し過ぎる「本音街」になったら、そこは対立に満ちた殺伐とした場になる。
ポリティカル・コレクトネスは、ポライトネス(礼儀正しさ)ぐらいにまで戻る必要があるのではないか。建前や社交辞令は、そもそも穏便かつ平和に、他者と共存していくための触れ合い方に関するものだったはずだ。コレクトネス(正しさ)は過剰に政治的になり得るが、ポライトネスには右も左もない。どつき合う政治はエンタメなら面白いが、経済や生活が振り回される。誰もが疲れてボロボロになった頃、ポリティカル・ポライトネスは復権するのだろうか。
※AERA 2025年4月28日号