びっくりしたし、最初は参った。学級委員にはいろいろ役割があり、たいへんだったのは、体育の授業になるとみんなの前に立ってやるラジオ体操の手本役だ。東京の小学校で、ラジオ体操の経験はない。母に頼んで、朝に流れるラジオ体操の放送を録音してもらい、一緒に自宅で練習した。
適応力があったのだろう。学級委員を懸命にこなすと、みんなが温かく包んでくれ、通学路が同じ級友と一緒に登下校するようになる。父の会社の社宅から歩いて数分で、日本海岸へ出た。その海岸も『源流Again』で再訪する。晩秋で、白い波頭が立っていた。夏は穏やかな海で海水浴を楽しみ、冬は荒々しい海を独り眺め、ときに引き込まれそうな怖さも感じた。
その「穏やかさ」と「荒々しさ」が、身に染み込んでいたのだろう。前号で触れたように、80年春に東京大学法学部を出て住友信託銀行(現・三井住友信託銀行)に入って7年が過ぎるころ、東京本社の開発不動産業務部で新商品「土地信託」を担当していたときに、顔を出す。
土地信託は客の所有地を各種の権利ごと預かり、マンションやオフィス棟を建て、不動産収益から土地提供者へ配当を出し、建設費も返済していく。当時の住友信託銀行が開発した手法で、「客に信頼してもらい、土地の運用を託してもらう」という信託らしい商品として、増やしていた。だが、土地の利用計画案をつくると、バブルの膨張などでコストがかかる一方、金利の上昇に即して配当を多くせざるを得ないなど、収益があまり期待できない。
部長に謝った暴言に「正しいと思うなら貫けばいい」の返事
そこで、ある金曜日の夜に上司とビールを飲んでいた席でそう主張し、部長と意見が対立。言い合いになって、荒々しい言葉まで口にしてしまう。週末に振り返って、言ったことは間違っていないから主張したのはいいとしても、暴言は論外。そこで月曜日の朝、部長に謝ったら「自分が担当する業務で、自分が正しいと思っているなら貫けばいい。謝ることはない」と言われた。以降も信頼して使ってくれ、上司の在り方を学ぶ。
この暴言と反省を、日本海の荒々しさと穏やかさに重ねてはいけないかもしれないが、主張の強さと考え直す際の柔らかさは、日本海の表情の変化を映しているのかもしれない。
2度目の転校の後、世田谷区の中学校で部活のサッカーをやりながら、高校受験に備えた。受験前に回った高校で雰囲気が「しっくりくる」と感じた東京教育大学(現・筑波大学)付属高校を受けて合格、サッカーを続けた。その高校も、直江津とは別の日に再訪した。