何が何でも戦争を回避するためには

大島 橘玲さんっていう作家が『テクノ・リバタリアン』っていう本を書いてましてね。これはいわゆるイーロン・マスク論みたいな本なんですが、面白い指摘があるんです。
自由で民主的な世界に暮らしている人は「個人の自由は誰にとっても大事な価値観である」という。これが大前提で共通の理解なのだが、その中でも「保守」と呼ばれている人たちは「自由は大事。だけど伝統も大事」という。「リベラル」と呼ばれる人たちは「自由は大事。だけど、平等も大事」という。これで右左が分かれるのだと。
和田 なるほど、私もリベラルだから自由も大事だけど、平等もすごく大事に思います。不公平なのは嫌い。伝統っていいますけど、日本で伝統と思われてるものってたいてい「明治」の時代に作られた伝統だったりしますよね。伝統ほどうさん臭いものはないように思います。自由で平等、アメリカはかつてそういう国だったんじゃないですかね。
大島 ところがイーロン・マスクやピーター・ティールのようなテクノ・リバタリアン(=主にITの世界で巨万の富を築いている人たち)はどうかというと、「大事なのは自由だけ」。それ以外の価値は必要ない。さらに言えば、「伝統」と「平等」と、どちらが自由を妨げるかというと、平等のほうが自由を妨げるっていうんです。「自分たちのような優秀な人間が、なぜ劣った連中と平等でなくちゃならないのか」っていうことです。こういう考え方こそが、格差の広がりを大きくするんだと思うんですが、小川さん、いかがですか?
小川 彼らはおそらく、ナポレオンやチンギス・ハーンみたいな感覚なんじゃないかと想像しますね。力で制圧して帝国を築き、自らが絶対権力者であるっていうね。
でもね、みんな平等で自由で人権があって……っていう民主的な状態は、人類誕生以来700万年のうち、日本では直近の80年ぐらいのことなんですよ。僕らが今当たり前だと思っている自由で平等な社会なんて、奇跡の一瞬にすぎないんです。
強大な力を持つ人が専制的に社会を統治し、権勢をふるう。もしかしたらそれが人類の当たり前の姿だったのかもしれない。そう考えると、この先もう一度その世界に戻ることを我々は許すのか。何が何でも自由、平等、人権、民主制を守り、次世代に引き継ぐ決意をするのか。そこを我々は今、問われている。重大な分岐点に立っているんじゃないか。
民主制とは何なのか。自由で平等って本当なの?っていう問いを立てて初めて、なにに抗い、なにをせねばならないか、が見えてくる気がするんです。
大島 「自由や人権は抑圧されているけれど平和」を選ぶのか。「自由と人権を求めて戦うが、そのために暴力や流血、死にさらされる状況」を選ぶのか。
例えば中国の新疆ウイグル自治区では、自由も人権も抑圧されている。でも、中国が圧倒的に強いから、夥しい血は流れていない。多少の暴動はあっても、破滅的な紛争には至っていないわけです。ではロシアとウクライナではどうなのか。たまたま今の日本ではそういうことはないけれども、今後他国と付き合ううえで、政治家はこの問題をどう考えるのか。