大西 風景としてのある種の広がりとか世界観を表現するだけじゃなくて、歴史観というか、相当肝に銘じていかないと、表現の中で自立してこないと思うんですよね。一番そこが難しいかなと思っていて。昔だったら、例えば学生が35mmで風景を撮っていて、次は4×5で撮れば、みたいなアドバイスがあるじゃないですか。そこでフォーマットの違いによって発見するものとか、写真作業がより拡大してくる可能性がある。この方はすごくお上手だから、そういう技術的な背景よりも、むしろ歴史観だったり、ある面で思想が大きく反映してこざるを得ないだろうなと。そうでなければいけないという見方も僕の中にはちょっとあるんです。完成されたこの風景の捉え方、技術力、それプラスアルファかなという気がしてる。

長島 後半に向かうにつれて人の営みが写ってくるのにはなにか意図があるんですか。

大西 なんでしょうね。

事務局 次につなげることなのかもしれません。彼はこれは本当に古代のこと、人の世界がはじまる前のこと、というように言っていましたから、だんだん人間の歴史に近づこうとして。

大西 やはり近代史との関わりですよ。

長島 『オプタテシケ』がそういう作品でしたよね。

大西 そうそう。

長島 博物館の物撮りのような感じの、民族学的な調査の写真を経て、この後半部分の展開、今森さん的にはどうですか。

集められた作品に対して真摯に向き合う、一次審査での選考委員たち(写真:佐藤創紀 朝日新聞出版写真映像部)

今森 なにか補足的に説明したいのだと思うんですが、あまり解説的に出てくるとマイナスの面があるかもしれませんが......。

長期的な計画

大西 本人がどういう気分、考え方でその後半を入れてきたのかというところが、結構核心かなと思ってます。

澤田 長期的に自分で計画している流れの中での今回の作品だったら、その流れのために後半変わってくる、ということなんでしょうね。

事務局 本人も長期的な計画だと言っています。

今森 かなり長期的だね。

澤田 乞うご期待っていう感じですね。

今森 そうですね。

事務局 吉田さんについて。

大西 展示をしっかり拝見していることもあって、そのときから非常に重厚な写真映像空間を作られているということは、すごく称賛に値するなと思いました。それから、ロードキルっていう、僕らがなんとなくわかっていることを、具体的に富士山周辺の専門家の人たちの力を借りて、きちっとマッピングしながら、そこで撮影取材というか、時間をかけて写真を集めてきている。その写真もダゲレオタイプという、本来ならば古典技法で、多くのアーティストたちが使ってきていると思うんですけども、ここはたぶんダゲレオタイプでなければならないという明確な吉田さんの理由があって提示してきた。それは空間の中でダゲレオタイプをのぞき込むことによって、単純な話ですけど、鑑賞者が映り込み、富士山周辺のおびただしい動物が死んでいる。そのことと同じような体験に即していると見てとれたんですね。そういう面では、しっかりした自然、環境、それから富士山のオーバーツーリズムを含めて、今の社会環境、社会状況もイメージさせている力はあるなと思いました。

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