長島 今回、他の作家さんについてもこれまでの作品に一旦戻って考えてみるということが多かったように思います。金川さんはすでに多くのお仕事をされていますし、私は彼の「これから」に期待することで先延ばしにするより、今年こそ踏み込んで向き合いたいという気持ちでした。ですが、最後の最後になにかが引っかかって、彼の作品を押しきれませんでした。それがなんなのか、ちゃんと知りたかったけれどまだ言語化できません。

大西 彼の言う「ワカラナサ」というカタカナがいつも私たち頭の中にあるんです。

「『わからない』ということが納得できる作品もある」と話す、長島有里枝氏(写真:佐藤創紀 朝日新聞出版写真映像部)

長島 「わからない」ということが納得できる作品もあるし、そういうわからなさは私も好きなんですが、なんでしょう。

事務局 中西敏貴さんについてはどうでしょう。

今森 ジャンル分けはあまりしたくないですけれども、どちらかというと自然というものを捉えるところから来られた人だと思います。最近のこの一連のお仕事は民族学的な要素が加味されています。人と自然を一緒にするかどうかという表現については今まで議論はあったんですけど、それが10年、20年ぐらい前からこういう表現の仕方が成立してきたかなと思います。中西さんのお仕事は、風景写真の枠を超えて表現されていることがたいへん面白いです。だから、ノミネートされている。

長島 そうですね。

半分は写真芸術で、あと半分は自然そのものの力

今森 自然を題材にした作品は、ストレートにものを見る行為です。被写体に魅力がいっぱい詰まっているので、作家が小細工をする必要がない。むしろ、自分の気配を消してしまうことに努力しないといけない場合もあります。自然写真は、芸術と科学の融合だとよく言われますが、半分は写真芸術で、あと半分は自然そのものの力なんですね。ですから、評論する人は、芸術面だけでなく、被写体についての知識もないと撮られた写真のほんとうの価値がわからないということになります。自然写真の場合は、私がデビューした頃は、植物、動物、野鳥、昆虫などのジャンル分けがされている時代でした。これは、決して否定的なことではなく、自然の場合は、それくらい専門的に被写体にのめり込んでいかないと良い写真が撮れないんですね。場合によっては、それを研究する学者と二人三脚で活動する、というスタイルも珍しくはなかった。自然写真が大きく成長して、時代背景もあると思いますが、やがて生物の中に人を入れた表現の仕方が注目されるようになります。日本人本来の自然観を取り戻そうとする考え方です。中西さんの作品を見ていると、その延長上にあるように思いますが、今回の作品を拝見していると、その枠をさらに超えようとしているエネルギーを感じます。

澤田 去年今森さんが、写真集『オプタテシケ』をご覧になったときに、これからこう積み重なっていくのが楽しみだとおっしゃっていたのが印象的で。

今森 自分のことが結構その中に出てくるのかなと思いますが。

澤田 これからがますます楽しみですね。

次のページ だんだん人間の歴史に近づこうとして