
「より多くの種目をこなすほど、順応性が高い自分には有利になる」。そんな計算が働いた。
97年の日本選手権で優勝した。当時24歳。本格的に取り組んで、まだ2年半。ある強豪大学の関係者からドーピングの疑いをかけられたのは、常識を超えた急成長がもたらした「勲章」ともいえる。
ところが、栄光に酔いしれる間もなく、失望が待っていた。2000年シドニー五輪に向けて、スポンサー企業を探したところ、一番良いオファーが800万円だった。同い年のイチローは、阪神・淡路大震災後に「がんばろうKOBE」を合言葉に戦ったオリックスで日本一にもなり、98年の推定年俸は4億円を超えていた。
「同じ日本一でも、価値が違う。何か人生が拓けると思ったら、街を歩いていても、誰からも気づかれない」
お金も知名度も、世間の評価も手に入らない。自分には需要がない。マイナーな競技を選んだ自分の不勉強を思い知らされた。
「地球で暮らす誰にでも名前を知られている人間になる」。そんな野望が芽生えた。
亡き兄の夢をかなえるため バーで芸人の話術を学ぶ

今歩んでいる芸能の道は、亡き兄、情の存在抜きには語れない。兄は中学を卒業するとすぐ、俳優をめざして活動を始めた。坂上忍の付き人として、テレビドラマや舞台にも出るようになった。
ところが、武井が大学生のとき、兄にガンが見つかる。すでに末期。自力で歩けなくなっていた兄を車いすに乗せ、新宿の映画館に行った。作品は「メジャーリーグ2」。石橋貴明の奮闘をスクリーンで見た兄はつぶやいた。「病気を治して、こういう作品に出たいな」。夢はかなわず、武井が22歳のとき、兄は24歳で生涯を閉じた。
武井は高校にも行かずに芸能界をめざした兄について、「何、夢みたいなことを言っているんだ」と思った時期もあった。よくけんかもした。ただ、のちに、父の限られた援助が弟の自分に回るよう、兄が高校進学をあきらめたと、兄が付き人をしていた坂上から知らされた。
「兄が元気なままだったら、僕はふつうにアスリートとして五輪をめざしていたかもしれない。それに芸能界に入ってから知りあう人で、奇跡のような偶然で兄と縁があった人に出会う。いつかは兄がやりたかったことにも手を伸ばそうと思い、芝居の勉強をしてきた。今の僕の原点には、亡き兄がいる」
(文中敬称略)(文・稲垣康介)
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