だって、美人であることを悟られないようにするのは、多分ですがブスであることを悟られないように、美人に見えるようにするより、技術的も金銭的にもハードルが低いはずだからです。昔、「野ブタをプロデュース」というドラマがありましたが、普段はそれこそ周囲を払うほど美しい堀北真希が、物語序盤で醜い子の役をやっていてそれなりにそう見えたというのはよく覚えています。別にひどい特殊メイクをしていたわけではなく、前髪を伸ばしてうつむいてブツブツしゃべっていただけでしたが。
“野ブタスタイル”をしない美人たちに言いたいこと
だから野ブタスタイルをしないで堂々と美人としてそこにいながら、「美人は損だ」という主張をしている人たちは、美人であることの心地よさや利点、ちょっとお得なことや賞賛や憧れの眼差しはちゃんと受け取りたい、しかし損な部分は嫌だ、と言っているように見えて、それは若干都合がいいように私には聞こえるわけです。ブスのひがみと言われてまったくかまわないというか、大体私の口から出ることの七割くらいはひがみなんですが、何かについて、そのメリットを享受したり、楽しさを味わったりしたければ、それに付いてくるやっかいな点は引き受けるのが大人の態度というか、仁義みたいなものだと思うのです。夏休みの旅行を楽しんだら、宿題が待ってる、みたいなもので。
もちろん美人だからといってその辛さを全身にうけて、人の嫉妬でいじめられ、挙句やっかみで刺されていいわけではありません。ただ、美人であることで降りかかってくる不幸について、回避したり対峙したり、あるいはうまく付き合ったりする力は、つけておいて損ではない気がします。別にひょうきんなキャラを演じなければいけないわけでも、自虐したり奢りまくったりしなきゃいけないわけでもないですが、自分が見ることのできるそれなりに良い景色について自覚的であったり、人の痛みを想像できたりすれば、それほどひどい扱いを受けないのではないでしょうか。人間は、美醜なんていうロクでもないもので他人を判断してしまう生き物であるけれど、その判断を覆したり強固にしたり、あるいは乗り越えたりするのは結局コミュニケーションであり、人間関係だと思うからです。

