
今回、『空海の風景』を久しぶりに再読して、自分が思っていた以上に影響を受けていたことに驚きました。力のある作品というのは、やはり無意識に身体化しますね。
辻原登:司馬作品で一番の傑作だと思っています。歴史小説、時代小説は、基本的にはファンタジーです。作者も読者も、空想を飛ばすことで、一つの物語世界をつくるという意味で。ところが司馬遼太郎は、1200年前の空海と彼が生きた時代を、ファンタジーではなく、断固として近代小説として表現した。突然、東大寺のお坊さんに電話をして質問するとか、小説のなかに書き手がいると読者に意識させつづける。しかもそれがうまくいっている。
磯田道史:司馬さんの作品中、史実から垣間見える本質を追い求めて、哲学的考察をして、一番成功した作品はどれだろうとなると、『空海の風景』でしょう。
キーワードだと思うのが、「形而上」です。例えばコップに水が何・入るかは「形而下」で、これを光にかざし、「なんで透明で光ると美しいんだろう」と考えるのが「形而上」。この小説が書かれたのは、オイルショック前後です。戦後ひたすら形而下の物的豊かさを追ってきた日本が一段落した時、司馬さんは形而上のことをもう一度、考えたくなったんじゃないか。
上田:今回、四つの柱を立ててみました。まず四国の室戸岬の場面です。19歳の空海はそこで洞窟に籠もり、自身の口のなかに明星(金星)が飛び込むという体験をします。澤田さんは室戸岬を実際に訪ねられたんですね。
澤田:現代でもとても遠いところです。空海さんがいらした時代には、もう視界に入るのは海と空しかなかったでしょう。若いころの空海が、ここで何を求めたのかということが肌で感じられる場所だなと思います。
釈:空海の人生のなかでも最も大きな宗教体験で、生命観や価値観が転換したということだと思います。空海は「三教指帰(さんごうしいき)」という著作で、自分と目される人物に「仏教の、一切衆生を救うことこそが本当の大きな慈悲なんだ」という、スケールの大きな話をさせます。それまで自分が身につけてきた儒教の理念や立身出世を捨てて仏教の道へと進む、大きな選択をします。
辻原:密教の源流のひとつであるバラモン教には「林住期」というのがあるらしい。ある一定の期間、森のなかで、さまざまな抽象的な思考をしたりする。室戸岬を含む空海の空白の時期を、そういう期間として理解していい。空海は非常にレベルの高い空想力の持ち主で、だからこそ明星がその口中に飛び込んでしまったんですね。決してフィクションではなく、ある真実を表すと思う。
《この一大衝撃とともに空海の儒教的事実主義はこなごなにくだかれ、その肉体を地上に残したまま、その精神は抽象的世界に棲(す)むようになるのである》
このときに、たぶん司馬遼太郎自身も、そういう世界に接近したんだと、僕は思う。