辻原 登(つじはら・のぼる)さん。作家。1945年、和歌山県生まれ。90年「村の名前」で芥川賞、2012年『韃靼の馬』で司馬遼太郎賞受賞。近著に『陥穽 陸奥宗光の青春』(撮影/写真映像部 小林 修)

大日如来に通じる孔雀

辻原:でも、空海が室戸岬に行くところよりも、さらに僕がおもしろいと思うのは、司馬さんが天王寺動物園に行くところです。

《この稿を書くほんの三時間ばかり前、私は大阪の肥後橋の食堂で、野菜をすりつぶしてカツレツ風に揚げたというあまり見なれない食べものを皿にのせ、すこしずつ切っては食っていたのだが、それとは何の脈絡もなく、不意に孔雀(くじゃく)を見たいとおもい、立ってしまった》

 不思議な文章があいだに入って、それがまたおもしろい。孔雀というのは、まさに密教の基本、大日如来に通じます。

釈:孔雀を神聖視するのはなぜかというと、毒ヘビを食べるからなんです。古代人は、「どういうメカニズムで解毒しているんだろう?」と考えずに、「孔雀になろう」と考える。まさに野生の思考です。

磯田:室戸岬と潮岬はどちらが南だろうと、真剣に考えたことがあるんです。空海が南の地の果てに行こうとしたのは間違いない。(緯度を測る)分度器を持って室戸岬に向かう空海を、僕は想像します。室戸岬に立てば、天地と水の境目に自分だけ。月に降り立った宇宙飛行士のような気持ちになるはずです。

上田:そうした体験を経た空海が、遣唐使船に乗って唐へ向かう。そこに学びたいものがある。で、二つめの柱を国際都市・長安との出会いとしてみました。

澤田:人間、似ているものを見たときほど違いを感じることはないと思うんです。長安をモデルに造られた日本の都を知る空海だからこそ、長安の街の大きさ、文化、さまざまな民族の人たちが行き来することに、ものすごく惹かれたと感じます。

 長安には多くの章が割かれていますね。司馬さん自身が空海と長安を歩いている気持ちで書いているんだなあと。

釈:景教(キリスト教ネストリウス派)や、マニ教のお寺まであった。異質のもの同士のインターフェースが一番クリエイティブじゃないですか。それはいまも昔も変わらない。

磯田:「大唐」といわれた時代のパワーの源は「寛容さ」ですよね。漢訳されたキリスト教の教えだって読めた長安で、好奇心が強い空海がそれに触れなかったと考えるほうがむしろ異常です。天才児が、そこで世界の思想に触れちゃったら、もう以前の空海じゃないでしょうね。

空海と最澄の関係、高野山の意味はなにか。シンポジウム後編はこちら。

(構成/フリーライター・浅井聡)

AERA 2025年3月17日号より抜粋

▼▼▼AERA最新号はこちら▼▼▼