
最初の24時間は全選手が突破。25ラップでひとりが脱落し、2月22日、土曜日の日の出(42ラップ・約282キロ)を迎えるころには7人に減ったが、レースは続く。この間の丹沢は夜間は氷点下6度にまで冷え込み、日中も粉雪が舞った。
「最初の夜からもう眠くて、立ち止まってウトウトして、慌てて時間に間に合わせるラップが続きました。でも夜が明けて、24時間が近づくとリズムができてきた。なるべくほかの選手とおしゃべりしたり、つらそうな選手に声をかけたりして自分も眠くならないように。寒さはきつかったです。ただ、僕らは自分のペースで走っていられるし、戻ってきたら温かい食べ物もある。運営やサポートのありがたさを感じながらのレースでした」
3度目の日没(54ラップ・約362キロ)を迎えたのは4人。疲労困憊、もうろうとしながらも励まし合ってラップを刻んでいく。2人ずつペアになって並走したという。
バックヤード・ウルトラは水野が「共走」と言うように、ひとりだけで走り続けることはできない。ラストマン・スタンディングというその方式上、最後のひとりになった時点で競技が終わるのだ。一緒に走り続けるライバルなくして好記録にはつながらない。
「もうこのくらいになると、言葉で励ますというよりも隣の人の走りに刺激を受けながら、何とか力をもらって走っていました。かなり記憶もあいまいでフラフラだったけれど、とにかく隣の選手と前に前に」

22日21時、4人に残っていた小松広人が57ラップでリタイア。稲永雄介もちょうど日付が変わった60ラップでリタイアし、走り続けているのは水野と中田和彦の2人になった。そして23日午前2時53分、水野が63ラップ目のゴールを切る。その直後、完走を断念した中田もラップを途中で切り上げ、戻ってきた。この時点で競技終了、水野の優勝が決まった。目標とした世界選手権の出場権に届かないことも。
満身創痍ではあるものの、競技直後のインタビューで水野が話した通り、体力的にも精神的にも、「まだ走れた」。それでも、悔しさはないという。63時間、422.5キロを走った水野や、それぞれの限界に挑んだ選手たちの顔には深い疲労とすがすがしさが同居していた。
水野は今回、選手として走ると同時に、企画者として開催準備に奔走してきた。選手集めに始まり、日本でのこの種目を統括している主催者との調整、地元自治体との折衝、当日に向けた準備など仕事が積み重なり、スタート当日の未明まで忙殺されていた。大会を振り返り、こう話す。
「もっと走りたかったでしょ、と聞かれるけれど、終わったときはほっとしたし、うれしかった。企画者としては大会が無事に終わって、選手としては最後まで走りきることができて、二つの意味で本当にほっとしています。私の声掛けに応じて集まってくれたほかの選手も短い調整期間のなかで全力で走ってくれた。とてもありがたかったし、幸せな時間でした」
個人世界選手権の出場も、まだ諦めてはいない。次は、6月にオーストラリアで開かれるレースに照準を合わせるという。

たまにジョギングするだけのサンデーランナーである私には、この過酷すぎる種目に熱中する理由をあまり理解できない。それでも、その情熱は確実に見るものを惹きつける。市街地から離れた、丹沢山塊の登山口に近いエリアで開かれた大会だったが、連日のように応援に駆け付ける市民の姿があった。私自身も日常を過ごしながら、何度もリザルトを確認していた。
バックヤード・ウルトラは、単なる長距離走ではない。過酷な時間を共有するランナーたちの間に絆が生まれ、それが彼らを前へと押し出す。走ることの本質が、この競技にはあるのかもしれない。(文中敬称略)

(編集部・川口 穣)
※AERAオンライン限定記事