その後、85年に113試合出場し、1軍定着をはたしたことにより、翌86年、7年ぶりに1番を取り戻した。ところが、ダイエー時代の93年オフに前出の秋山が移籍してくると、1番を譲り、今度は31番といった具合に、めまぐるしく背番号が変わった選手として記憶されている。
ドラフト5位指名なのに背番号7を貰ったのが、10年に阪神入りした藤川俊介だ。
近大時代に通算95安打、7本塁打を記録し、俊足、強肩と三拍子揃った外野手は、東邦ガスへの入社が内定していたが、会社側と話し合い、「3位以上の指名ならプロ入り」と表明していた。
ところが、阪神側の事前の調査不足により、5位で強行指名。ドラフトの翌日、「昨日初めて(プロ入りの条件が)3位というのを知った」という黒田正宏編成部長が近大へ指名挨拶に訪れたが、本人に会うことはできなかった。
交渉はもつれ、一時は入団拒否の可能性も報じられたが、その後、東邦ガス側が「阪神で活躍すれば、東邦ガスの目が正しかったことになる」と譲歩。12月14日、他の新人選手より1週間遅れて入団発表に漕ぎつけた。
入団と同時にかつて金田正泰、真弓明信、今岡誠ら歴代の強打者たちが着けた7番を与えられたのは、ドラフトの際の不手際で迷惑をかけたことに対するお詫びと、「実質3位以上の評価」というバーター的な意味合いも含まれていたようだ。
だが、藤川は実働11年で1度も規定打席に到達することなく、通算打率.249、9本塁打、86打点に終わり、背番号も13年から「68」に。こうした事情から、今でも「なぜ入団時に7番を?」と不思議がるファンも少なくない。
レジェンド番号をいきなり新人に与えるパターンが目につくのが、中日だ。
NPB史上最長の実働29年間プレーし、通算219勝を記録した山本昌が2015年限りで引退すると、背番号34は、同年秋のドラフト4位で入団した福敬登に与えられた。
その年は、通算2050安打、319本塁打の和田一浩の5番は5位の阿部寿樹、通算2120安打、378本塁打の小笠原道大の36番も6位の石岡諒太に。名球会入りしたレジェンドたちの背番号が相次いでプロでまったく実績のない下位指名の新人に与えられたことが、ファンの間で賛否両論を呼んだ。