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ソフトバンク3年目の育成出身左腕・前田純が、昨季限りで引退した和田毅の背番号21継承に意欲を見せている。1軍登板通算1試合と実績不足のため、夢実現は今季の活躍いかんになるが、その一方で、過去にはそれほど期待値の高くない新人がいきなりレジェンド番号を貰った例も少なくない。
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巨人入団後、いきなり広岡達朗の2番を貰ったのが、1968年のドラフト3位で入団した内野手・矢部祐一だ。社会人のオール常盤時代は三塁手で、ショートは守ったことがなかったが、広岡退団後、2年間空いていた番号を入団早々着けることになった。
実は、2番は田淵幸一のために用意されていたという。巨人は王貞治の1番、長嶋茂雄の3番と併せて2番・田淵を“1、2、3トリオ”で売り出す構想だったが、ドラフトでは予備抽選の8番目(当時は指名順位抽選方式)とくじ運に恵まれず、3番くじの阪神に田淵を指名されたため、“絵に描いた餅”で終わった。その結果、新人の矢部に回ってきたという次第。
「まさか広岡さんの背番号を貰えるとは思わなかった。守備には不慣れですが、バッティングのほうは自信ありますよ」と張り切った矢部だったが、V9時代真っただ中の戦力が充実した巨人では出番がなく、70年から背番号57に変更。2番を背負ったのは、たった1シーズンだった。
高校からドラフト外入団で、いきなり背番号1を与えられながら、わずか半年で取り上げられてしまったのが、79年に西武入りした小川史だ。
クラウンを買収し、同年からプロ野球界に参入した西武は、トレードなど大規模な補強で選手が入れ替わった結果、高卒1年目の小川が2年間空いていた1番を着けることになった。
ところが、打撃不振で前期終了後(当時のパ・リーグは2シーズン制)に解雇されたミューサーの後釜として入団したタイロンが1番を着けたことから、小川はシーズン途中でミューサーの24番に変更されてしまう。その24番も82年に秋山幸二に譲り、背番号50に変わったのもつかの間、翌83年に南海にトレードされ、今度は56番に。