李琴峰『日本語からの祝福、日本語への祝福』 (朝日新聞出版)
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 新しい言語に出合い、習得すると、その言語に内在する独特の世界観に目を開かされる思いをすることがある。アラビア語で「こんにちは」に相当する挨拶「アッサラーム・アライクム」は直訳すると「あなたの上に平安がありますように」で、未来の事柄を述べる時に使うフレーズ「インシャアッラー」は「神の思し召しのままに」だ。ウイグル語の別れの挨拶「フダーイムガ・アマーネット」は「あなたを神に託したよ」の意味である。いずれもこれらの言語が使われてきた文化圏における神の身近さを実感させる言葉だ。中国語では儒教の二元論的な宇宙観が対句や四字熟語の多用に反映されているということは「四文字の宇宙」章で述べた通りである。これらの言語を母語とする人にとっては何の変哲もない日常的な表現に過ぎないが、初めて出合った人は、まったく違うフィルターを通して世界を見ているような新鮮味を感じるだろう。

 日本語との出合いも発見の連続だった。日本語というフィルターを新たに手に入れることで、私は世界を違う角度から見ることができた。それまでは同じだと思っていたものや感覚が、実はまったく違うものだと気づいた。

 例えば「人参」と「大根」。中国語では前者は「紅蘿蔔(ホンルオブオ)」で、後者は「白蘿蔔(バイルオブオ)」だから、同じものの色違いだろうと思っていた(ちなみに、人参は「胡蘿蔔(フールオブオ)」とも言い、「胡」は異民族の呼称なので中国語圏の人たちにとっては外来の食物であることが名称で強調されている)。「匙さじ」も「スプーン」も「レンゲ」も「おたま」も、中国語ではことごとく「湯匙(タンチー)」として区別されていない。レンゲを所望したつもりなのにスプーンが出てくることが普通にあるし、医者が諦める時に投げるのはどれでも構わないわけだ。「マシュマロ」も「綿菓子」も、中国語では「棉花糖(ミェンホアタン)=綿のようなふわふわしたお菓子」なのでやはり区別されない。

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言語によって感情の捉え方が違う?