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 言語には使い手たちが長い年月を通して培ってきた世界観が組み込まれている、と芥川賞作家の李琴峰(り・ことみ)さんは最新著書『日本語からの祝福、日本語への祝福』(朝日新聞出版)の中で語っています。

 日本語、台湾語、中国語、英語、様々な言語を通して、李さんが考える言語に内在する世界観とは?

 刊行を記念して、本書から一部抜粋・再編集して特別に掲載します。

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 言語学習にある程度の深さでコミットした経験を持つ人は大抵、とある問題に遭遇したことがあるのではないだろうか。すなわち、「その言語に内在する偏見を、どこまで受け入れて内面化し、どこを意識的に拒否して修正するか」という問題である。

 言語を使うのは人間であり、特定の言語は、特定の人間集団によって使われながら形作られてきた。人間が自分たちの身の回りの世界をどのように見、どのように認識するか/してきたかによって、「世界観」が築き上げられる。特定の世界観を持つ人間が情報伝達をする際に用いるのは言語なので、彼らの持つ世界観はもちろん、言語にも組み込まれる。「言語は道具に過ぎない」という人たちがいるが、これには賛同できない。言語は道具みたいなニュートラルなものではなく、いわば世界を見るフィルターのようなものだ。特定のフィルターを通して世界を見た時、ある部分は解像度が高くなるが、別の部分は解像度が低くなったり、捨象(しゃしょう)されたりする。それだけでなく、言語は時には曲面鏡のように、映し出す像を歪ませる。ところで、私はここで「曲面鏡」と書いたが、実際に頭に浮かんだのは中国語の「哈哈鏡(ハーハージン)」という言葉である。「哈」は笑い声を表す中国語の漢字なので、直訳するとさしずめ「ハハハの鏡」になるだろうが、要は凹面鏡と凸面鏡を組み合わせた鏡のことだ。そういう鏡に映る像は歪んで滑稽に見えて笑いを誘うので、中国語では「哈哈鏡」と名付けられた。私は「哈哈鏡」が書きたくて、日本語で何と言うんだろうと思って調べたところ、どうやら一番しっくり来る訳が「曲面鏡」なのでそのように書いたのだが、それにしても「哈哈鏡」と「曲面鏡」はまったく質感の異なる言葉ではないだろうか。同じものを指しているはずなのに、見方と発想は完全に異なっているのだ。

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言語を習得すると見えるもの