
擬態する岐路
他方で、岐路? 自分には関係がないな、と本を閉じたくなった方もいらっしゃるかもしれません。
ちょっとだけ待ってください。無縁な人はいないと考えます。耳元でわかるようなわからないようなことばばかりささやかれているうちに、岐路を見えにくくされてしまっただけではないか、と。
聞き覚えのある、アドバイスであり、説教であり、ネガティブフィードバックであり、はたまたある種の呪い。もっともらしく、誰かがあなたにこれらを説くとき、岐路は擬態している。私はそう考えるのです。
そうして、自分と社会のありようとの間には、ほつれた糸しかない、自分ができることなんてたかが知れている……と無力感を内面化してしまうのではないでしょうか。
ですが、私は諦めたくありません。擬態した岐路に気づく練習を、運よく積んできました。こんなステップを踏む、泥臭いやり方ですが。
自身や周りにジャッジメンタルな(良し悪しを二元論的に決めつけようとする)目線を向けないことから始まります。
そして、「知っている」を超えて「わかる」こと、上原専禄(うえはらせんろく)のことばで言えば、「自分が変わる」というのは、どういうことか? について著そうとしています。