一本の綱を、二組に分かれて引き合う、おなじみの「綱引き」。
運動会の種目としてだけでなく、伝統行事としても世界じゅうに「綱引き」が存在しているのは、以前のコラム(下のリンク参照)でもご紹介したとおりです。
今回のテーマは、そのコラムでも少しだけふれた、沖縄の「那覇大綱挽」(毎年10月の体育の日を含む土・日・月の3日間で開催)。20万人以上の人びとが見物に訪れる一大イベント「那覇大綱挽」の伝統行事にこめられた、人びとの思いに迫ります。
「綱引き王国」沖縄で、異彩を放つ那覇の綱引き
もともと沖縄は、綱引きが盛んな土地。伝統行事としての綱引きが、各地で行われています。
それらの目的の多くは、「五穀豊穣」や「豊漁」、それに「雨乞い」など。開催される時期も、旧暦の6月から8月に集中しています。
古くから交易で栄えた商業のまち「那覇」。
その那覇で綱引きが行われるようになったのは、16~17世紀ごろのことです。王都・首里にも近いことから、豊作や豊漁よりも「慶賀」、王朝をことほぐ「祝い綱」としての綱引きとして発展したのだといわれます。
空襲、地上戦、ベトナム戦争……多くの苦難を乗り越えての「復活」
第二次大戦の末期、上陸したアメリカ軍と日本軍の戦闘により灰燼と帰した那覇のまち。
琉球王朝の時代から続いた綱引きも、中断を余儀なくさせられました。
長年の伝統である綱引きを「復活」させよう……そんな気運が高まったのは、日本への「復帰」が迫る1970年代初頭のことでした。当時、アメリカ軍の統治下にあった沖縄。ベトナム戦争の真っ只中であり、物資や人員を運ぶ軍用車が行きかっていた時代です。
そんな中、沖縄本島の「大動脈」である幹線道路(現在の国道58号線)を封鎖して綱引きをやろうというのですから、アメリカ側は当然、大反対。
市民の熱意でそれを押し切り、復帰の前年となる1971(昭和46)年に、開催にこぎつけたのです。
他の綱引きと違い、新暦の10月に開催されるのは、那覇がアメリカ軍の空襲で壊滅的な被害を受けた日付け(1944年10月10日、通称「十・十空襲」)にちなんだもの。灰燼からの復興を祝うとともに、日本復帰を前に期待と不安、相反する感情に揺れていた人びとを盛り上げようという狙いがあったとも伝えられます。
綱は「お持ち帰り」可能? 幸せを「引く」一大イベントに
長く中断していたこと、また激しい空襲と地上戦によって、綱引きに関する資料はほとんど失われていたといいます。
鉦や太鼓のリズムとっても覚えている人がほとんどおらず、お年寄りに口ずさんでもらうなどして作り上げられたのが「那覇大綱挽」なのです。
「世界一のわら綱」としてギネス認定されているという大綱はあまりにも太いので、側面に人がつかむ「手綱」が何百本も取り付けられています。そうして綱引きを終えた後の綱は、縁起ものとして参加した人に少しずつ切り取られ、持ち帰られるのだそうですよ。
平和を願い、幸せを願って綱を引き合う那覇の大綱引き。開催日まではまだ時間がありますので、10月の連休に旅行を計画されている方や興味のある方は、現地に足を運んてその歴史に思いをはせてみてはいかがでしょうか。
参考:「日本の祭り」編集室編「日本の祭り 九州・沖縄編」(理論社)
機内誌「コーラルウェイ」2007年9・10月号