エージズム(老人差別)のない社会をめざして

 人種差別や男女差別は多くの人が理解していることであろうが、老人であることを理由に、その人たちを「こうに違いない」と型にはめて考え、差別することをエージズム(老人差別)という。この言葉が生まれたのは今から50年以上前のことで、1969年にアメリカの老年医学者、ロバート・バトラー博士により提唱された。

 エージズムの概念に基づく「老人」は、頑固で偏屈、時代遅れの考えや技術の持ち主とされ、若者は高齢者を自分たちとは異なる人種とみなし、老人を人間扱いしなくなっていった。その結果、高齢者に対する尊敬の念は失われ、高齢者はただの老いぼれで、若い人たちにとっての重荷でしかなくなる存在として、社会で差別的な扱いを受ける。このような風潮が実際にアメリカでもあったのだ。

 その後、法律の改正や人々の意識の変化により、このような風潮は少しずつ改善し、現在では制度も考え方も大きく変わっている。「老人」という言葉や「老い」という表現には、「老いぼれ」「老害」などネガティブなイメージがあり、そのため現在では「高齢者」という言葉が広く使われるようになっている。また、医学の進歩により、認知機能の低下は単に老化のせいだけで起こるのではなく、アルツハイマー型認知症などの病気により引き起こされるものだという認識も広まっている。

 しかし、日本ではまだ、老人に対する偏見と誤解は残っているといえる。年をとった人すべてが、認知機能の低下により、あえて悪い言葉を使うと「ボケて」しまうと思っている人も多いだろうが、それは間違いだ。また、高齢者は弱者であり、若い世代の負担になるだけだという風潮もいまだに残るが、それも高齢者の一側面だけをとらえた極めて貧相な発想である。このような考え方は差別であることを認識し、改めるべきだろう。

 高齢者は弱者や役立たずなどではなく、むしろ「知的資産家」といえるのではないだろうか。結晶性能力は年齢を重ねてからより高まる可能性があることを理解し、そのような高齢者の能力を活用する方策を考えることこそ、この超高齢社会に求められる「発想の転換」といえるだろう。

 社会にとって有用な知恵を授けることができる高齢者は、社会から必要とされることはあっても、排除されることはないはずだ。高齢者に対する施策を検討する際には、ぜひ、このことを十分に考えてもらいたいと思うのである。

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