異国でのプレッシャー 日本の伝統が支えになった

「燃えるドレスを紡いで」の上映会で、同作を監督した関根光才(中央)と。ファッションデザイナーにはコミュニケーション力、チーム運営力、社交力が必須だ(写真/篠塚ようこ)

 ヨーロッパの服飾の歴史は、とてつもなく重い。その重さに日本人としてどう対峙(たいじ)するか。休みで帰国するたびに、地方の産地を回りながら答えを模索する。機屋や染屋、生地屋と、そこで目にした素材には、ヨーロッパに負けない伝統があり、さらに温度で色を変えるような先端技術も加わっていた。厚意でもらった布地をスーツケースに詰めて戻り、教授たちに見せると「すばらしい」と感嘆の声が上がる。その事実が異国でプレッシャーと闘う中里を支えた。

 アントワープの教育では、作品に込める社会性、批評性も重視された。21世紀グローバリズムが広まる中、それらが引き起こす負の現象にも敏感でなければならない。とりわけ芸術、文化、思想に関わる者には、カウンターとしての鋭い表現が求められる。

 社会的課題への感度については、裕福ではなかった家庭がプラスに作用したと中里は分析する。

「ウチはなんで欲しいものを買ってもらえないんだろう。そんなことを小学生のころから考えていました。父、母はすばらしい作品を生み出すのに、それが経済的な成果につながらない。その疑問が、芸術と社会を接続させるという、今につながる表現の動機になったと思います」

 08年に日本人最年少で修士課程を修了。卒業制作はアン・ドゥムルメステールからイノベーションアワードを贈られた。翌年に東京で自身のブランド「YUIMA NAKAZATO」を設立。アントワープの仲間とパリにショールームを開設し、インディペンデントなデザイナーとして活動を始めた。日本では夜間に肉体労働のアルバイトを行い、日中の時間はすべて服作りに費やした。悲壮感はなかったが、本人いわく「だいぶビハインドからの出発」だったという。どんなに才能があっても、日本人という条件だけで、モードの本場である欧米のビジネスや人脈から遠くなってしまうのだ。

朝5時から10時は1人で過ごす時間と決めている。アトリエにある窯で、日本の土を使ったジュエリー用の陶器オブジェを制作することが日課(写真/篠塚ようこ)

 しかし、アントワープ王立芸術学院の卒業生は、卒業を果たしたという一点でも、世界のファッション関係者から注目される存在だった。10年にアメリカのヒップホップグループ、ブラック・アイド・ピーズから世界ツアーの衣装を打診された。女性ヴォーカル、ファーギーを担当するスタイリストが、中里の作品をチェックしていたのだ。

 予算はノーリミット。代わりに、誰にもマネできないものを示さなければならない。卒業制作で作った、折り紙のようなモチーフが舞台の上で形を変えていくドレスを進化させて、LAでプレゼンテーションを行ったら、すぐに採用が決まった。キャリアのない若者でも、期待に応えれば躊躇(ちゅうちょ)なく抜擢(ばってき)する。欧米流のダイナミズムを肌で感じた。

 その経験がオートクチュールに興味を向けるきっかけになった。ファストファッションがビジネスの本流になり、服が使い捨てられていく時代。ミュージシャンやアーティストの衣装はその対極で、1人のために1点の衣装を、時間と手間をかけて作り上げる。そこには創作が人にもたらす原初的な喜びがあったと、中里は言う。

(文中敬称略)(文・清野由美)

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