アントワープで学んだ 「なぜ、デザインするのか」

大阪・関西万博シグネチャーパビリオン(テーマ事業プロデューサー:宮田裕章)ではゴールドウインと組んでユニフォームをデザイン。リサイクル率76%の新遮熱素材で、生地デザインではAIや3Dデジタル技術を駆使した。昨年12月の記者発表会で(写真/篠塚ようこ)

 パリ・コレには高級注文服のオートクチュールと、高級既製服のプレタポルテの2部門があり、特に前者はファッション界最高の権威とされ、超が付く狭き門で知られる。中里は16年、パリ・オートクチュール組合に招待デザイナーとして認められ、この檜(ひのき)舞台に上がることになった。森英恵に次いで2人目、12年ぶりの快挙だったが、それは世界で最もシビアな競争に身を投じることでもあった。

 東京都下のベッドタウンで生まれ育った。父は彫刻家、母は彫金家。芸術的な家庭だったが、裕福とはいえず、会社員家庭が大半の同級生とは話がなかなか合わなかった。ある時、いとこからもらったブランド品のシャツを着ていたら、自分を見る友人の目が変わった。服は状況を変える。服への関心が急激に高まり、高校3年の夏休みに、モード震源地だったベルギーのアントワープ王立芸術学院の卒業ショーを見に行った。

 アントワープは1990年代にマルタン・マルジェラ、ドリス・ヴァン・ノッテン、アン・ドゥムルメステールといったカリスマが輩出し、概念的なアプローチで、パリを頂点とするヒエラルキーを組み替えた前衛の地だった。80年代に川久保玲、山本耀司が、極東の日本から世界のファッションを変えたように、ヨーロッパ辺縁のベルギーから革新が起こっていたのだ。

次代の人材を育成する教育プログラム&アワードの「ファッション・フロンティア・プログラム(FFP)」の発起人としても活動。4年目となる昨年12月の授賞式では、後進たちとファッション論を熱心に交わしていた(写真/篠塚ようこ)

 自分もこの学校で学びたい。心を打ち抜かれた中里は、デッサンと英語を猛勉強して、高校卒業後に同学院ファッション科に入学する。

 ここでの教育は極めてユニークだった。同期の入学生60人は年度ごとに30人、15人と半数がふるい落とされ、最後に数人の精鋭だけが残される。年間の学費は8万円。カリキュラムの核は、技術ではなく哲学。「あなたはなぜ、デザインするのか。その必然性とは何か」。教授たちからは形而(けいじ)上的な問いを常に投げかけられ、説得力のある答えを作品で示していかねばならない。

 世界各国から集まった学生の中には、英国のテーラーとプロのモデルを雇って作品を作ってしまう者もいたが、手法はすべて自由。金銭も含め、持っているものはすべて才能であるという考え方の下で、問題意識と創意だけが純粋に問われる。

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異国でのプレッシャー 日本の伝統が支えになった