デビュー20周年を迎えた町田康の最新刊『ギケイキ 千年の流転』は、こんな文章ではじまる。
〈かつてハルク・ホーガンという人気レスラーが居たが私など、その名を聞くたびにハルク判官と瞬間的に頭の中で変換してしまう〉
 ここでの「私」とは、判官贔屓の語源となった源義経のこと。共闘したはずの兄に追われて非業の死をとげたからか、義経の意識は成仏せずに今も浮遊していて、いきなり駄洒落をかまして自伝を語りだす。
 この語りが絶品で、古語とネット用語まで含めた現在の言葉が絶妙にからみ、つながり、口承の臨場感をもってテンポよく展開していく。たとえば源氏復興への意気込みは、〈平家、マジでいってこます〉となる。
 史伝物語『義経記』を下敷きにしながらも註釈はどこにもなく、町田節とでも呼びたい一人称の饒舌な文体に乗せられて読み進めるうちに、遠い過去の若者たちの純真や蛮行が鮮やかに眼前に見えてくる。町田に憑依した義経が自在に当時と現在を往還し、私たちがガハハッと笑いながら読めるよう書法に配慮してくれているからだろう。
 こうして片仮名の『ギケイキ』は牛若時代から弁慶との出逢い、そして頼朝との対面直前までを描き、スピードとファッションに異様にこだわる義経の特性を明らかにした。すぐにでも続巻が読みたくなった私は、代わりに池澤夏樹編集の日本文学全集8巻に収録されている、町田が訳した『宇治拾遺物語』を再読。ここでも古い説話を私たちの業の噺に変えてみせる言葉の力を、笑いながら堪能している。

週刊朝日 2016年7月15日号