クマは棺桶をひっくり返したが、空砲を撃つなどしたところ、外へ逃げた。
ところがその直後、第二の悲劇が起きた。逃げたクマは森に帰らず、太田家の北500メートルほどのところにあった明景(みよけい)家に侵入したのだ。
この家には妻子6人のほか、同宅に避難していた4人、計10人がいた。ヒグマは1時間近く人を襲い続け、妊婦の腹から引き出された胎児を含めて5人が亡くなった。遺体のほとんどに食害が見られた。
14日、十数人の猟師による狩りが行われ、クマは太田家の北2キロほどの地点で射殺された。
門崎さんはこのクマについて、冬眠直前だったと見る。
「ただ、当時の新聞記事を読むと、痩せていたという記述はありません。ですから、特に食べ物に困っていた、という状況ではなかったでしょう。それでもヒグマは人を襲って食べる猛獣だということです」
夏祭りの帰り道での悲劇
「石狩沼田幌新事件」も、北海道開拓時代の1923年8月21日に起きた。
現場となった沼田町は、「三毛別ヒグマ事件」が起きた苫前村にも近い。開拓民一家が夏祭りの帰りにクマに襲われ、食害された事件だ。
現在の留萌本線・恵比島駅跡の近くで太子祭が行われていた。村はずれの開墾地に暮らしていた村田さん一家ら5人は、祭りを楽しんだ後、帰路についた。そして午後11時半ごろ、川沿いの道を北へ4キロほど歩いた地点で突然、闇の中から現れたヒグマに襲われたのだった。
クマは抵抗した2人の息子を激しく攻撃した。ほかの3人は近くの家に逃げ込んだものの、クマはそれを追ってきた。窓に両手をかけて覗き込み、家の中へ入ろうとした。