北海道のヒグマの駆除をめぐり、10月に猟銃所持の許可を取り消されたハンターが控訴審で逆転敗訴したことを受け、北海道猟友会は自治体からのヒグマの駆除要請に原則応じないよう全支部に通知する方針だと、地元紙の北海道新聞が報じた。道内で起きたヒグマによる凄惨な「事件」について、改めて紹介する(この記事は「AERA dot.」に2023年11月24日に掲載された記事を再配信です。年齢、肩書等は当時のもの)。
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今月2日、北海道南部の大千軒岳(福島町、標高1072メートル)を登山中だった北海道大学の学生が、ヒグマに襲われて死亡した。道内でのクマによる人身被害を振り返ると、明治から大正にかけての開拓時代に重大な被害が多発している。なかでも1915(大正4)年に起こった「三毛別(さんけべつ)ヒグマ事件」は、死者7人を出した日本史上最悪の獣害事件だ。さらに23(大正12)年の「石狩沼田幌新事件」では3人が亡くなった。悲劇が繰り返された理由を、専門家は「ある意味、人災だった」と指摘する。
「三毛別ヒグマ事件」は、作家・吉村昭のドキュメンタリー小説「羆嵐」やテレビドラマ、マンガなどで紹介され、広く知られるようになった事件だ。
事件が発生したのは道北の天塩地方、日本海沿岸の苫前村(現・苫前町)。
この地域は大正中期まで、ほぼ全域がヒグマの生息地。クマに襲われた2軒の開拓農家は、三毛別川の河口から20キロほどさかのぼった、そんな山間部で暮らしていた。
第一の事件は12月9日の昼前に起こった。突然、沢の近くにあった家屋(太田家)に巨大なクマが侵入。在宅中の妻と男子を襲って殺した後、妻の遺体を運び去った。
翌日、捜索隊は130メートルほど離れた地点で、ササなどを被せた遺体と、その近くにいたクマを見つけた。遺体のほとんどは食べ尽くされ、頭と四肢下部を残しているにすぎなかった。クマは捜索隊に向かってきたが、鉄砲などで反撃されると立ち去った。
取り戻された遺体は太田家に安置されたが、その夜にあった通夜の最中、クマが再び襲ってきたのだった。
なぜ、クマは攻撃を繰り返したのか?
「ヒグマは捕獲した獲物に対して強く執着します。遺体にササをかぶせるのは『自分の食べ物だ』という印です。クマはそれを取り戻そうとしたわけです」
長年、ヒグマの生態を調査してきた北海道野生動物研究所の門崎允昭(まさあき)所長は、こう説明する。