海外の賓客や要人と親しく交流し、人間関係を築くのも皇室の役割のひとつだ。そんな皇室の「あのとき」を振り返る(この記事は「AERA dot.」に2019年6月4日に掲載された記事の再配信です。年齢や肩書などは当時のもの)。
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皇室入りの原点はここにあったと思わせる、堂々の外交デビューだった。 日本国という概念を超えて際立つキャリアとセンス。天皇陛下とつくっていく令和流の皇室像も見えてきた。
晩餐会で陛下は、ご自身のアメリカでの思い出について述べられた。そして「皇后も、幼少の時期をニューヨークで、また、高校、大学時代をボストン郊外で過ごしており、私どもは貴国に対し、懐かしさと共に、特別の親しみを感じています」と続けられた。
陛下は皇太子時代から、会見などの場で「雅子は」と語ることが多かった。『水運史から世界の水へ』という本を4月に出版されたが、「はじめに」で「妻の雅子」への感謝の気持ちをつづり、第7章「水災害とその歴史」には「雅子と共に」という表現が5回あった。
だから陛下が晩餐会で雅子さまについて語るのは驚きではないのだが、それでも特別な感慨がわいてきた。雅子さまの道を振り返るなら、「皇室外交」こそが、ボタンのかけ違いの始まりだったと思うからだ。
雅子さまと皇太子さま(当時)は、結婚翌年の94年11月に中東4カ国を訪問した。翌年1月、中東3カ国を訪問。99年にはヨルダン国王の葬儀とベルギー皇太子の結婚式に参列した。ベルギーからの帰国直後「懐妊の兆候」と報じられたが、20日後に流産が発表された。次の本格的な訪問は2002年のニュージーランド、オーストラリアで、これは愛子さまが誕生した1年後だった。
出発前の会見で雅子さまは「外国に参りますことが、私の生活の一部となっておりましたことから、外国訪問することがなかなか難しいという状況は、正直申しまして、その状況に適応することになかなか大きな努力が要ったということがございます」と述べられた。
それから10年後、元皇室医務主管の金澤一郎さんの退官直後のインタビューを読み、この発言をしみじみと思い起こした。金澤さんは、こう語っていた。
「ご成婚前に、いわゆる『皇室外交』もできるからと説得をお受けになったようですね。ただ、皇室に入られてから、想像されていたことと違うことがさまざまおありだったと思うのです。皇室では、外国の王室も同様ですが、まずは『お世継ぎ』を期待されます。しかし、初めの六年半はお子さまに恵まれなかった」(「文藝春秋」2012年8月号)