「外国訪問することがなかなか難しいという状況への適応に努力が要った」という表現は、つまり、「お世継ぎファースト」という状況への違和感の表明だったのではないか。そんなふうに思った。

 もちろん真相はわからない。雅子さまの国民への語りかけも、この日が最後となった。1年後の03年末に帯状疱疹(ほうしん)を患い入院、「適応障害」という病名が発表されたのは04年7月。以後、雅子さまはお誕生日などに際しても文章を発表するだけになり、そこから「本音」のようなものが見えることはなくなった。

 だが、令和になっての雅子さまは威風堂々、自信を持って行動しているように見える。宮中祭祀(さいし=5月8日、期日奉告の儀)や単独公務(同22日、全国赤十字大会)もこなした。

 大統領夫妻との一連の行事を無事に終えた翌日、放送大学教授の原武史さんに話を聞いた。原さんが代替わりにあたり、「令和時代の皇室の鍵を握るのは雅子皇后」と述べていたからだ。「雅子皇后の体調が戻らなければ天皇の権威化が進み、回復すれば新しい皇室像を打ち立てる可能性があるだろう」というのが、原さんの見立てだった。

 雅子さまの皇室外交デビューは、新しい皇室像につながるものだったか尋ねた。

 原さんは「トランプ大統領を初の国賓として迎えたのは、日米同盟強化のための皇室利用のようで釈然としない」とした上で、今回の一連の行事から令和の皇室が平成とは違うものになる可能性を感じたという。

 通訳をはさまず対応をする、つまり完璧な英語を話す姿から、雅子さまは『日本人』『国民』という範疇(はんちゅう)だけで物事を考えているのではないように思えた。日本にはすでに多くの外国人がいて、ますます増えていく。明治以来の「国民国家」という観念が揺らぎつつある時代になっていることは明らかで、そういう時代だからこそ逆に外交官だった雅子さまの存在感が浮上する可能性もある、と原さん。

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