秦王嬴政暗殺未遂事件の首謀者の燕太子丹は、王賁が遼東まで追い込んで首を受け取った。王賁は魏王を捕らえるために、魏の都大梁城を黄河の水を引いて三ヶ月もかけて持久戦を行い、王を捕らえた。そこには軍事的な知恵と忍耐力を見ることができる。

 秦の将軍にとって、六国の王を生きたまま捕虜にするのは最上の功績であった。王翦・王賁父子でほぼ成し遂げたといってもよい。王翦は趙王遷、楚王負芻を捕らえ、子の王賁は魏王仮、燕王喜、代王嘉、斉王建を捕らえた。

 一方、競い合った蒙氏一族は、蒙武が王翦とともに楚軍を攻め、昌平君と項燕を死に追いやっただけであった。

 二世皇帝の時代は、三代目の王離が秦の将軍となった。王離については、名将という評価と、三世の将軍には長らく殺戮を重ねてきたのでその報いがあるとの評価で分かれていた。

 王離の戦績は、二世三(前二〇七)年鉅鹿(きょろく)の戦いで趙王を包囲するも、項羽の援軍に敗北して捕虜になった記録しかない。王翦・王賁、蒙驁・蒙武・蒙恬の名将もいなくなった秦には、東方の諸将の反乱を抑えることはできなかった。

《朝日新書『始皇帝の戦争と将軍たち』では、魏・韓・斉など「六国」を滅ぼすまでの経緯を解説。羌瘣(きょうかい)や王齮(おうき)や李牧(りぼく)など、将軍たちの史実における活躍も詳述している》

始皇帝の戦争と将軍たち 秦の中華統一を支えた近臣軍団 (朝日新書)
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